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| 2005年09月16日(金) |
社会構成主義のふにゃらら |
日心の1日目の午後WSは『社会構成主義のプラグマティックス』に参加。
社会学のA先生、N先生が社会構成主義について論評された。
共通していたのは、次のようなこと。まず「社会構成主義」といってもいろいろな立場がある。全てを言語的構成だといってしまうようなラディカルなものも、私たちは言語的相互作用なしにはなにも知ることはできないという、一種の不可知論としての社会構成主義とにわけることができる。そのうちで後者のように穏当に使うならば、社会構成主義はよいアプローチである。例えばナラティブ・セラピーのなかではアンデルセンやWhiteの立場は穏当な立場に属するといってよい。Andersonのコラボレイティブアプローチはラディカルである。
N先生はそのうえで『<界>恊働連関モデル』を呈示された。例えば、手術室においてはいろいろな見えがある。電子顕微鏡あり、各種計器の指標あり、肉眼での見えあり。このように様々な<界>がある状況は、人々の関心によっていくつもの見えが構成されるという状況にあたる。
この状況のもとで、ひとつひとつの<界>が他との連関をたもちつつも独立自存しているという場合、N先生の言葉でいえば<混在郷>の状態、ひらたくいえば「なんでもあり」の状況といえる。社会構成主義に対する痛烈な批判として知られるオントロジカルゲリマンダリングへの応答として、コンテクスト派がとっているのはこの戦略である。
他方で厳格派がとっているのは、文脈を厳しく制約することでたしかな社会的構成をとりだそうとするアプローチであるが、これはあまりひろがりのある戦略とはいえない。
<混在郷>的状況も、ひとつひとつの<界>が孤立するという状況も望ましくはなくて、それぞれが恊働連関をなすことが必要となる。例えば、競争状態におかれたときに相対的に説明力の弱いものが淘汰されていくと考えておられる。実に面白い。
A先生はガーゲンらの自己物語論は、自己言及性を隠蔽することでなりたっているという。自己言及性とは、語る対象となる世界は、語る主体を含むということである。
自己物語論のもとでは、人は語ることによって自己をたちあげる。ところが、この自己をたちあげるために語ったのは、ほかならぬ自分である。ではその自分はどうやって作られたのかといえば、それは語られることによってであり、その語っている主体は誰なのかといえば、それは自分であり、、、。ここに循環関係がおこる。普通、私たちはこのような循環関係をどこかで断ち切って、そのことを隠蔽することによって断定的に語ることができている。
では、この自己言及をあらわにするのは何か。そのひとつはトラウマ的記憶である。過去の出来事でありながら、うまく過去の自分にとりこむことができずに、現在の語り手を拘束してしまう。トラウマ的な出来事は、自己物語のただ中で、物語ることが失敗してしまうということにおいて姿をあらわすものである。これもまた大変に刺激的。
おもしろいだとか刺激的だとか、なんかまともな意見言えんのか俺は。
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hideaki
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