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2005年06月28日(火) 何を言うかでなくて、いかに言うかが大事

最近、テレビをめっきり見なくなったのだが、ひょんなことからドラマの『エンジン』を続けて見ている。木村拓哉がレーサーなったもののミスから失職し、親(だと思うのだが)がやっている養護施設にまいもどってきたところからストーリーははじまる。養護施設の子どもたちは、小さい頃に親に捨てられたり、虐待をうけたりと、いずれもひどい過去をもっていて、心理学的にいうならば「愛着障害」をもつ、一筋縄ではいかない難しい子ばかりだ。それが木村拓哉がこの施設に帰って来て以来、徐々に変わりはじめる。

思うに、木村拓哉の魅力は、子どものことを立ち直らせてやろうとか、かわいそうだから面倒みてやろうとか、そういう気持ちをこれっぽっちも持っていないところではないだろうか。彼がやっているのは、自分に正直に生き、施設の子どもにも、いつも直球で自分の信条にしたがって対決するということだ。

さて、このように言うと、「それならば木村拓哉の役のような存在になれれば子どもが救えるのだ」と考える人がでてくるかもしれない。あるいはしたり顔で「あの人が治療的に働いたのはたまたまで、危ないこともあるよ」と否定する人もいるだろう。おそらくそれが常識的な見解だ。しかし、僕はあえて、両方ともそうではないと言いたい。

木村拓哉が素晴らしいか、あやういのかとうことは、そもそも彼だけではなくて、子どもたちが彼のような存在を、そのような人として受け入れたということによって決まっている。あえて彼に素晴らしさ(危うさ)を帰属するならば、それは子どもにとって、かのような役割として受け入れやすい(受け入れにくい)存在であり続けたということだろう。

ある養護施設の指導員をリタイアした人が、現役時代に印象的だった人として「いつも理想論ばかり語る」先生をあげていたのを思い出す。この元指導員さんは普段はそんな理想論が通用するとはまったく思っていないし、実際、その先生は緊急時にはまったく使えない人だったそうだ。しかし、多くの指導員たちは、その先生にはずっとそういう存在であってほしいと思っていたのだそうだ。

ここでも大事なのは語られた理想論ではない(逆に、ノウハウでもない)そうではなくて、そういう先生のことを必要だと認められた指導員と、先生との関係性がすばらしいのだ。日々忙しくて、無力感にかられ、悠長に人の話なんか聞いてる気力も暇もない仕事にもかかわらず、そのような理想論を大事だと思えたのは、指導員の人たちの力だし、その先生の「その場の切実な現実をよく知りつつ、それでも普段はまったく役にたたない理想論を語りつづける」という存在様式がもたらす力であったろう。

要は、文脈からはなれてどんな言葉も意味をもたないし、その文脈をつくるのは、必ずしもその場で発せられた言葉の内容ではないということだ、と思う。


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