I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2005年01月18日(火) 理論は確信犯的に

理論がなければデータはみられない。虚心坦懐になにも持たずにデータをみろといってもそれは無理な話だ。セラピーでも来談者中心療法の人などを中心に、何ももたずにクライエントの話を聞かなければだめだといったことを言う人がいる。

それで、そういう人は精神分析や、構造的家族療法がもっているような「それ、伝統的な家族観おしつけすぎやん」「家父長制ばりばりやん」みたいな理論によるアセスメントを嫌う。

しかし、これはあくまでもそういう理論をとおした時に、はじめてクライエントや家族システムの自由でユニークなありようが見えてくるための仕掛けにすぎなくて、(こういってよければ)「本当のこと」を書いているのではないって思うのは僕だけ?。「ありのまま」なんて言っている人は、僕からすると、逆に「ありのまま」ドグマにとらわれている人だ。

研究でもそうではないだろうか。理論というのは、それを使うことでデータの自由でユニークなありようがリアルに見えてくるようにするための制約だと思う。日本の認知科学をリードする某S先生にいわせれば、それ自体なにをやっているのかよくわからない細胞でさえ「俺が細胞だったら、なるほど俺もこうやって分裂するなーって思うような」しばりをかけるのが理論である。

しばしば、その縛りの強さにまけて、「というわけで、この実践は対話のなかで構成されています(誰か特定の研究をさしているわけではない)」という「いや、あんた社会構成主義からはじめる言うたやん」みたいな、序文からよんでも考察からよんでも書いてあることの順番が同じの、さながら「上からよんでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」的な論文ができてしまうことがある。これではいかんのである。

いや、まだそれならばよいかもしれない。

問題は理論にほれこんで、どんな現象もそれで説明できるはずだ、いや、せねばならないのだ!!と思いこみ、自分のとってきたなけなしのデータをはたいてその理論にかけるというやり方だ。こういう場合、聴衆の頭に浮かぶのは、「そのデータでそこまで理論を展開してしまうのはやりすぎじゃないか?」「どうして他の理論で説明すればすっきりするのに、そうしないのだろう?」というようなものだ。あるいは「このデータってなんだかよくわかんないなー。何がおこってるんだろう???」とか「なるほど、そういう理論があるのか。今度原著よもー。引用文献欄、引用文献欄っと」というのもある。こういうのをデータと理論が乖離しているというのだろう。

とにかく理論というのは、あくまでもデータの方が豊かなのを縮約する際のしばりにすぎないのであり、それだからこそデータがあるかたちをもって見えてくる。理論にまけているデータをみても、僕らは理論の方がしっかりしているんだなーということしか分からなくて、肝心のデータのなかで何がおこっているのかをさっぱりつかめないのである。

それではおもしろくないではないか。


INDEXpastwill
hideaki

My追加