I create you to control me
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日曜日の研究会で、ある方が「現場にとって研究者の存在はうざいんじゃないでしょうか」といった発言を冗談まじりにおっしゃった。
それに対して僕は「うざくてもいいんじゃないかな」とつぶやいたのだが、それをちゃんと聞いておられたフロアの方から真意を聞かれた。
僕はこう思っていたのである。
現場の人が感じるネガティブな感情を一種の「抵抗」と考えれば、そのような抵抗がおきることは悪いことではない。
このことは例えば青年期の人々には大人の言葉が、将来的には「役にたった」「あの時いってもらってよかった」というものになるにも関わらず、しかしその当座はたまらなく侵入的でうざったいということを想起すれば了解される。
そもそも、現場にとってうざくない研究なんてあるんだろうか?。現場になんの抵抗もなく受け入れられたり、その通りですと言う事をきいてもらったりする人は、その現場がまったく主体性なく動いているのでないとしたら、面従腹背、うまいこと手玉にとられているだけとさえ思う。また、本当に喜ばれて受容されているとしたら、その研究者がさった後のその現場はどうなるのか。いつまでもそこにつきあい続けるつもりだろうか?。そんなことできないんだから、それはそれで心配である(まあ、そんなことはめったにない)。
つまり、言いたいことは、喜ばれるにしろ、うっとおしがられるにしろ、そこで何が起こっているのかを理解しないことには先にすすめないということだ。喜ばれることがよくて、うっとおしがられることが悪いなんていうのは、その現場を理解する努力を途中でほっぽりだしているのではないか、なんて思うわけである。
もっともこういうことを言うと研究者はごう慢だと言われるかもしれないし、安易に自分がフィールドからうける仕打ちを正当化する説明につかわれるのは悲劇である。あの研究会で山森さんが「責任をとる」とおっしゃったり、ある方が自己省察をともなわなければならないとおっしゃったのはまったくその通り。うっとおしがられるよりは、喜ばれるほうが気持ちいいのも言わずもがなである。上記の意見はそれを前提にしたものである。
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hideaki
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