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2004年11月07日(日) 存在論的問い?

第12回の次世代研。存在論的な質的研究は保育研究にどう役にたつのか?というようなテーマで、高崎短大の岡本さん、早稲田の清水くん、白梅短大の無藤先生が話題提供され、それに弘前大学の砂上さん、九州大の坂本くんが指定討論するという形式で計4時間。僕は司会。

岡本さんは保育場面における音楽性、清水くんは「遊び」について、それぞれの論を展開した。
両者に共通するのは、外在的な視点から現象を記述するのではなく、その現象に参与している当のメンバーの視点内在的にその現象を再記述してみようというものだったと思う。

外在的な視点にたつということは、例えば遊びとは何かを定義したうえで、その「遊び」が他のどのような要因と関連しているのか、それにどのようなバリエーションがあるのかといったことを問うありかたである。これに対して、存在論的問いというのは、ほかならぬ目の前でおこっているこれが「遊び」として私たちのまえに立ちあらわれるとしたら、それはいったいどのようにしてかということを問おうとする。

これは僕は非行少年の「問題」というラベルについて問うたのと同じタイプの問いであって大変了解可能なものである。ただ、しかしこれは現場にとっては、大変に重い問いである。おそらくこうした問いをもつことで導かれる答えというのは、現場の誰しもがおそらくは(表立っては)否定できないものでありながら、いざやりましょうとなるとなかなか実行できないものなのである。

無藤先生は「再投入」という言葉をつかって、このタイプの問いがどのように現場でいかされるのかということを論じられた。いわく、現場と研究者のコミュニティーが重なる部分がある。この重なる部分をいかにつくり、現場の実態をふまえながらいかに研究者の知見を共有していくのかということが問題になる。

この場をつくるというのもまた難しいものがある。私はスクールカウンセラーをやっているなかではこの手の問題に直面することは多い。もちろん、これまではたかだか大学院生のカウンセラーがやってきて何かをいっても聴いてもらえないということが大きかったのだが、それだけではなくて学校の先生が直面している多忙さという問題がある。いきおい「次の時間にどうすればいい」という短期的な問題に対する答えが求められてしまう。そういうときにこの学校に内在する根本的な問題に言及しても、それはうけいれられない。

火事のときにはまずその火事を消すことが大事で、出火原因について分析的にさぐっていくのはその火事がおさまって一息ついたときである。たとえ、出火原因についてあらかじめ知っており、前々から心配していた火事がおこったとしても、である。消防士にそれを語りかけて何になるだろうか。そんなこという暇あったらバケツのひとつももってこいといわれておしまいである。

こういう日常的話題にすれば、いつでもどこでも存在論的に問うことのナンセンスさ(そして危険さ)はすぐにわかりそうなものだが、不思議と研究者が研究するときはそういうことは忘却されるのかもしれない。ハノイの塔は、コーヒーカップになおすととたんに正答率があがるという研究がある。

現場には現場の時間があるし、役にたつとかたたないとかいうことも、単純ではなくて、まさに文脈のなかで役にたつということが意味をもたなければならない。存在論的に問うということは、先生にとってみればこれまで自分が教師としてやってきたことを崩されるような経験だ。教師は存在論的になんか問わない方がよい。午前中の休み時間に存在論的に問うてしまったために、昼からの授業では、授業することの意味がわからなくなったら大変なのである。いつでもどこでも誰にでもやれることではないのだ。山森さんがいみじくもいっていたが研究者は無責任に結果を返すからうっとおしがられるのである。先生が安心して教師であることを棚上げして問えるような場所を確保できるまで、研究者はつきあわなければならないのだと思う。

 討論の終盤では、慶応大学の鹿毛先生が、「役に立つのか、立たないのか」と問うことの不毛性について熱っぽくお話になった。僕は、このお話がすべてだと思った、がしかし、それで黙ってしまうということになれば、そもそもこの研究会はいったいなんだったのかという気がしないでもない。で、、、どうするのか。自戒をこめつつ、その先をもうちょっと頑張らねばならないなと思う会であった。



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