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2004年04月18日(日) ヴァルネラビリティ

3人の人質が解放されたとたん、世の中、バッシングの嵐である。「自己責任」でいったのだから、国民に迷惑をかけるとはなんたることかということらしい。20億かかったんだから弁償しろという声まであるそうだ。

彼らの行動に一定の理解を示す人々であっても、「今回の行動は未熟」であって「お灸をすえられて当然」という論調がめだつ。退避勧告がでているところに行ったのだから、それなりに自覚をもって行動してもらわないと困るというものである。

しかし、ここで彼ら個人の「能力」を問題にするのは、問題のすりかえではないだろうか?。私には非常に巧妙な言説に思える。

というのも、マスメディアは危険を覚悟で現場に入り、貴重な情報を伝える人々を否定することはできない。そんなことをすれば、メディアは自分達の情報源をみずから規制するという自己矛盾を抱えるからだ。「覚悟」や「自覚」の程度の問題に帰属することは、この自己矛盾を回避するためのよい方法となる。

私のみるところ、おそらく、本人が十分すぎるほど自覚していたとしても、結果的に拉致されれば、周囲は本人の自覚の問題にする。なぜならば、「自覚」「覚悟」「理解」といった「こころ」は周囲から観察されるものであって本人の主観的な確信とは無関係だからだ(「この数学の問題を理解した」と、どれだけ本人が強弁しても、答えがあっていなければ理解したとはみなされないことを考えてみればよい)。

女性が暴行された時など、しばしば「自覚がたりない」と本人が責められることがある。「夜中に、危ない街中で、あんな格好をして歩いているのは自覚がなさすぎる」というものである。被害者は被害者なりに自覚していたとしても、結果が悪ければ本人の自覚の問題になるわけだ。

しかしながら、このような事件の場合、責められるべきは加害者であって被害者ではないのは明らかである。このような事件をおこさないために、街灯を増やすとか、警察のパトロールを強化するとか、「夜中にひとりで盛り場をうろつく女性は、男性に誘われたがっている」とかいった神話を矯正するとか、いろいろ対策はあるはずで、このような様々なオプションの存在を忘却することが、被害者の「個人的失敗」にリアリティをもたせるのだ。

今回の3人の場合だって同じだ。どうしてイラクのストリートチルドレンを救いたいと思った女性が、安全にその活動にいそしむことができるような環境を整えるべきだという話にならないのだろうか。

イラクに自衛隊をおくることは当たり前、戦争しているところにひょこひょこ出ていかないのは当たり前、そのうえで拉致されても国家が責任をもたないのは当たり前といった、いくつもの「当たり前」に無自覚であることが、3人の「個人的失敗」にリアリティをもたせてゆく。

その「当たり前」は本当にあたりまえか?。


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hideaki

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