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2004年04月12日(月) 数えるということ

発達心理学会のときのこと。僕は知りあい2人とともにトンカツ屋にいった。学会でしかあわない僕たちは話したいことでいっぱいであった。
ただし、その日は午後から3人とも出席するシンポがあったので、とりあえず目にとまった店にはいった。別にトンカツが食べたかったわけではない。

だから店にはいってもメニューを漫然と眺めながら話していた。
その時、店員さんがふいにメニューをとりにやってきた。僕らはふいをつかれたが、しかし「また決まったら」というには時間がたちすぎているようでもあったし、第一、僕らにそんな時間的余裕はなかった。そこで僕らはいそいで食べたいものを探して注文していった。以下に示すのはそのときの発話だ。

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友人A:えー、とんかつ定食で。
友人B:とんかつ定食で。
僕  :あー、えーっとね、とんかつ定食で。

店員 :はい。(店奥にむかって)とんてい3つでーす。
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ここで店員さんは、僕らがひとつひとつ頼んだとんかつ定食を、「とんてい3つ」と呼んでいる。僕はこのときの会話がけっこうおもしろかった。


「どこが?」という声がきこえてきそうだ。


 実は、僕は友人2人に先をこされ、しかも2人ともトンカツだというので、「みんな同じというのもちょっとなあ」とか、「いや、でも1人でエビフライとのセットにするのもちょっとなあ」とか、「そもそも、ここって、とんかつが一番安くて900円なのか。けっこう高いなー」とか、そういうどうでもいいようなことをあれこれ考えたすえに「とんかつ定食」といったのだ。あー、えーという発話にはそのような迷いがこめられている。

 一方で、友人Bは食が細い人なので、お昼からとんかつなど実は食べたくなかったかもしれない。彼は僕らよりはるかに年下なので、僕らに配慮してその店に決めただけかもしれなかった。実際、彼は僕らがたいらげているのに、半分ほどのこしてしまったのだから。Aについては知らないが、それなりに迷ったはずだ。もしかしたら、逡巡する時間がもう少し欲しかったかもしれない。もちろん、どうでもよかった可能性も否定できない。

 つまりである。「トンカツ定食」という3人の発話は、それぞれの事情、好み、経済力、場の制約などの要因が複雑にからみあって発せられた一言なのだ。「トンカツ定食」という言葉は同じでも、それぞれの意味付けはまったく違うのだ。それぞれに固有な「トンカツ定食」といってもよい。

 しかし、店員さんにとってはそんなことはどうでもいい。彼女にとってトンカツ定食という言葉は、自分がメニューをとってレシートに書き込み、ちゅう房にむけて叫ぶためのひとつの記号にすぎない。僕らがどんな気持ちで注文しようと、どんなアクセントを使おうと、そんなことはどうでもいいのだ。だから、彼女はそれぞれに固有の「トンカツ定食」という3人の言葉を、「トン定3つ」と数える。

 数えるということはそういうことだ。

 何かひとつの側面に特化し、その特徴をみたす限りにおいてそれらを同じとみなす。そのことによって現象は、ある特定のカテゴリーへとおとしこまれていく。それぞれに附随していた固有の歴史は忘れ去られていく。

 もちろん、そのことが悪いわけではない。同じとみなすことによって、さきほどの店員さんの作業効率はあがる。いちいち客の好みを聞いたり、体調を考えていたら、メニューなんてとれたものではない。

 実際、体調を考え、希望を聞きながらメニューを教えてくれる店もあるが、そういうところは店員さんも熟練を要するし、そうしたサービスにみあった値段を我々も要求される。僕がいつもいく床屋は、どんなに注文しても「あ、いつものやつやな」と、たいていおっちゃんの思い通りの髪型になる。しかし、おっちゃんはとても仕事がはやく、切られていて気持ちいい。だいたい僕は床屋ではゆっくりぼーっとしていたいので、店員にいちいち「ここはどうしましょう」「何cmくらい切りましょう」と尋ねられるととてもうるさく感じてしまう。しかも、おっちゃんはこれでも関西地方では有名な職人さんらしいから、僕なんかおっちゃんの「いつもどおり」で十分である。

 しかしである。


 我々は普段の生活のなかでしばしば自分達が数えていることに気づかない。たとえば、滋賀県は全国でも有数の不登校の多い地域である。教育関係者はみな、不登校をへらそうということをスローガンに頑張っていらっしゃる。あたかも不登校なる人がいるみたいである。ここで各々に固有な人生を歩み、それぞれに固有な両親のもと、それぞれに固有な地域環境、それぞれに固有な友人をみつけ、それぞれに固有な教師に導かれて十何年そだってきた人のことを、「不登校」とひとくくりに呼ぶことにどんな意味があるのか?と疑問に思うのは自然だろう。まして、それを全国で比べるというのはどういうことか?。

 もちろん、そのことで見えてくることもあるのかもしれないが、同時に個別の生徒の特徴はみえなくなっていくだろう。数えるという行為には、数えることによって見えてくるものと同時に、見えなくなっていることに十分自覚的であらねばならない。





 


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