ポゴレリッチ、再び!その2 - 2007年01月19日(金) イーヴォ・ポゴレリッチの公演、最終日の大阪も無事終ったようですね。 これで今回のポゴレリッチ騒動も終了か〜。 この間書きましたけど、先日私が聴いた1月12日の東京公演は本当に素晴らしかった。 「素晴らしかった」と書いただけではあまりにも何も書いてないのと一緒だな、と思うし、 実際、「普通」とは全くかけ離れた演奏がこんな一言で片付けられるような単純なものではないことは自分が一番わかっているのですが、それでも「どうだったか?」と言われればまずはこう言いたいです。 考えてみれば私が彼を知ったのは大学時代。 友人が 「ショパン・コンクールであまりにもエキセントリックな演奏をしたもんだから予選で落選したけど、審査員だったアルゲリッチが「彼は天才よ!」とその落選に腹をたてて椅子を蹴って帰ってしまった、というエピソードをもつポゴレリッチというピアニストがいるんだ。」 という話をしてくれ、それに興味を持ったのが始まりでした。 もっともポゴレリッチってアルゲリッチと名前が似てるから贔屓してたのかな?なんてその程度の興味だったけど。 で、初めて彼の実演に接したのが1987年のサントリーホール。 奇しくも今回と同じベートーヴェンの最後のピアノソナタ「第32番op.111」を弾いた。 (今回の来日ではいきなりしょっぱなだったが、この時はその前に「第17番・テンペスト」を弾いた。) それがまず素晴らしかった。 この時のコンサートがあまりにも素晴らしかったものだから、あまり「変わってる」なんて印象がなく、むしろ「ポゴレリッチってなんて変な演奏をするピアニストなんだ!」と感じたのは、この実演よりも、その後買った何枚かのCDからでしたね。 ベートーヴェンのソナタが何よりも好きな私が、自分でも意外なのですが、 前にも後にもあんなに素晴らしい「op.111」は聴いたことがない。 私がそれまで、この偉大なソナタを実演で聴いたことがあったかどうか記憶が定かではないのですが、少なくともCDではグルダやソロモン、バックハウスやケンプをはじめ、「最高の演奏」といわれるものはかなり聴いていたと思います。 ポゴレリッチの「op.111」は部分部分でのテンポの動きや、音色、声部間のバランスこそ変わっていたし、 特に宇宙的・宗教的なあの第2楽章の変奏が、ひとつひとつ区切るよりも大きな全体として広がっていくような弾き方が、従来の大家とは相当違った感覚だったけど、 その静謐さや内から湧き上がるある感動的な「何か」は他にちょっと例えようがなかったです。 確か、あの時朝日新聞紙上でも吉田秀和先生が「自分が聴いたもっとも精神的なop.111」と書いていましたね。 今回(ちょうど20年ぶりにこの曲を同じポゴレリッチで聴いたわけだ!) のコンサート、こういう思い出があるだけに、この曲を前回の悪夢的体験をさせられた今のポゴレリッチで聴くのは正直怖かったし躊躇したのだけど、それが杞憂に終ろうとは逆に驚きでした。 そして嬉しかった。 第1楽章のフーガ的な展開が、ああいう熱をもって通常のテンポで、いかにもベートーヴェンの「ハ短調」的に弾かれ、その後に精神が浄化されるような第2楽章が響く。 後半ずっと通奏低音のように鳴らされていたトリルが段々大きく、そして高音部へと移っていき、最後は宇宙に鳴り響く鐘のように会場を包み込む様は何ともいえないものでした。 でも!! これだけが20年前と違いました。 最後の終止の仕方。 楽譜の通り、普通に弾けば静かにハ長調の終始(ドで終る)で曲が閉じられるところ、 まるで「今までの感動的な演奏はすべて冗談です。えへへ」と言わんばかりの無造作な感じで、スタッカート気味に終止させたのだ。 げっ。こんなところでポゴレリッチがポゴレリッチである所以をアピールしなくても。 ま、それでも全体の感動は変わらないのですが。 次に弾いた、独り言をとめどもなくつぶやく様な「エリーゼのために」と 「第24番・テレーゼ」が、これはまた異様な演奏でした。 イン・テンポで颯爽とした流れを作り出すポリーニとは対極。 メチャクチャ遅い序奏から、遅めだけどまあまあ通常の主部に移るものの、 また次の曲想がでてくるとすごく遅くなる。その揺り返し。 それにいつもそうだが、メインの旋律や対旋律以外の埋め草的な音を表面に響かせたりするものだから、「これは一体何の曲か?」ということになる。 楽しい気分になったかと思えば急に寂しげになったり。 まるで躁鬱の激しい若者のように。 第2楽章冒頭の遅さは「ふざけてんのか?」って感じ。 (こういうのを聴いて怒り出す人がいるのは、まあわかります。ピアノの先生なんかやってる人には尚更でしょうね。) しかし、戸惑いながらこの「テレーゼ」、無類に面白かった。 そういうことになりながらちゃんと世界が成立しているのだ。 ポゴレリッチのそうした独創的な部分、 これは意見が分かれるだろうけど(実際、ネット上でも真っ二つですね) 対象になる楽曲を前に、考えに考えて何かを見出し突き詰めたものだ、ということを昔から私は確信しています。 決してその場の思いつきとかではない。 もっともどうしてそう考えて、そしてああいうことになるのか?というあたりはまったく理解不能ですが(苦笑) 今回、軽井沢で行われたマスタークラスでは「とにかく楽譜に忠実に。楽譜をよく読んで。」 と言っていたそうで、そのことからもその確信は深まるのですよね。 後半のグラナドスにしても発見が多かったです。 もぞもぞ言ってるような、普段気にとまらないバスの音が意味ありげに響いたり。 豪壮で悪魔的なリストや、超絶技巧と強烈な色彩を撒き散らしながら驀進するバラキレフの「イスラメイ」。 ただ、いつもそうですが、彼のあまりの打鍵の強さに後半あたり調律がどんどん狂っていく。リストのあたりで既に相当の音の狂いを生じていましたし、アンコールで弾いたショパンのノクターンは、それこそおもちゃのピアノを弾いているような感じになっていました。こういう現象はポゴレリッチ以外ではほとんどお目にかかりません。 何年前かな?ポゴレリッチが東京でチャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾いた時などは、あの最初の輝かしい和音一発で調律が狂い、そのまま最初から最後まで狂いっぱなしのピアノを聴かされたことがあります。 凄い演奏だっただけに残念でした。 しかし・・・つくづく前回2005年の来日の、あの拷問のような演奏は何だったのだろう?と思います。 そして、そういう演奏ながら前回から少し気付かされていたのは、 彼の演奏から暗さが薄まってきていること。(演奏中の照明は相変わらず暗いですが) かつての彼の演奏には、どこか暗く寂しく、時によっては死の香りすら立ち昇ることがあったものですが、今回「そういえば、そういった暗さはどこへ?」 実際、演奏が終ってお辞儀をしている時のポゴレリッチ、 随分気分がよさそうな感じがしました。 ...
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