ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

対照的なお客 - 2006年04月21日(金)



先週から今週にかけて
これこそ最高の音楽家!と心から言いたい2人のコンサートに行ってきました。

こないだ、ちょろっと書いたメゾソプラノのアンネ・ソフィー・フォン・オッターと
ピアノのエフゲニー・キーシン。


で、2人の音楽の質、そして技の素晴らしさについて
思う存分熱く語りたい(いつも迷惑?)のところなのですが
ちょっとそれとは別のことを。


最近、日記なのだから自分が感じたことをさくっと書き付けるだけで
何も考えなくたっていいじゃん、
って気持ちと
本能的に、いや、やっぱり音楽に関わって生きている人間なのだし
読んでくれている人がいるのだから、
やっぱり自分の感じたこと、考えたことをしっかりまとめて
後で読んでも(自分にとっても)価値があるようにきちんと書くべきだ、
という気持ちが葛藤しています。

後者をやるには時間があまりない、ってのもあるのですが
まあ、性分でしょうかね〜。
何か迷いながらどっちつかずで
両方の間を振り子のようにいったりきたり。



だからというわけではないのですが、
私が今日書きたいのは、コンサートの「質」のこと。

これは演奏の質とは違うところに感じている話で、
ぶっちゃけ書きますと、お客さんの話。
オッターのコンサートはとても成熟した、大人の雰囲気を感じさせるものであったのに、キーシンのコンサートはひどくガッカリした、ということ。


オッターの歌には凛とした「品格」があって、
お客の雰囲気にも、彼女の歌をじっくり受け取り、かみしめ味わうという
ある種の余裕があった。
だからそれは演奏者にもフィードバックしていったようで、歌は終りにむけてさらに深々となっていったし、そしてそれはそれは心地よい幸せで親密な雰囲気が会場を満たしていました。

私もその場にもっといたかったし、帰ってからも余韻、というか却って自分の中から感動が新しく生まれてくることを実感さえもしました。



しかしキーシンのそれは違いました。本当に残念。

繰り返しますが、これはキーシンが、という話ではなく
(これほどのピアノを弾く人はポリーニやアルゲリッチを除いて、他にいまい。まさに若きピアノの王者。全盛期のアシュケナージを思わせるあの充実した音!)
会場の雰囲気のことです。


私は別にそういうのを嫌い、というほど嫌いじゃないけど
花束をもってステージ前まで駆けていく女性の群れ、
手をふり、黄色い声をあげる女の子、
イヤな言い方をすればミーハーばかりで、
アンコールを8曲も弾いているのにまだキャーキャー言い続け
(しかしキーシンはそういう盛り上がりには「律儀」だと思う)
メインの充実したベートーヴェンとショパンは何だったんだろう?と
すっかり感動も失せてしまった。余韻どころの話ではない。


と、こう書いてきて、それって別に悪い事じゃないじゃん、
とも思うのだけど(読んでいる人もそう思うと思う。)
私はその様子をどう見ても、その日のお客のかなりの部分が
キーシンという類稀な天才、スターを単に聴きに「来た」、その場に「参加した」
ということだけで酔ってしまって、音楽なんか二の次になっている、
という風にしか見えなかった。


少なくとも私には「ぶち壊し」だった。


堅いこと言うんじゃねーよ、と言いたい方はいるだろうけど
仕方がない。
特にオッターのあの素敵な雰囲気を味わった後では
どうしようもない。


あれでは、キーシンの日本での今後にとっても不幸だと思う。


なんだか書いてたら、だんだん気分が熱くなってきた。。。
もう、今回は自分のバランス感覚だとか何だとか
かなぐり捨てて書きたいです。


あの素晴らしい彼のピアノをもっと味わってくれ。
まずはじっくり聴いてくれ。

「音楽」を二の次にしないでほしい!!

・・・ということですよ。




結局、それって優しくない人間の行為だと思うのですよね。












...




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