ちょっと疑問 - 2004年11月18日(木) ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートのことを 先日日記に書きましたが、 色んなサイト(音楽サイトだけでなく)をのぞいて見て、 このオーケストラがいかにこの国の音楽ファンに愛されているかを痛感しました。 なんとなくわかる気がします。 素晴らしく上手い、という以上に あの「木」の質感たっぷりのヨーロッパ風サウンドは アメリカのオーケストラのメタリックな機能美? よりもきっと日本人好みですよね。 (こういう話はもっと考察してみたい欲求にかられますが、とりあえず。) ところでそれらを読んでいて、 これは私のマニア心?、というか 「え?そうかな?」と思うことがいくつか。 みなさん、首席指揮者のマリス・ヤンソンスが「ロシア人」だと 書いてらっしゃって(そうでない人もいますが) 「ロシア人にしては」ベートーヴェンやブラームスにロシア臭がない、 とかチャイコフスキーはさすがだ、というような話になっているのを散見するのですが 彼はラトヴィア人なのです。 バルト三国のひとつラトヴィアは、 他の2つ、エストニア、リトアニアとともに ロシア(ソ連)に長らく属していたことは確かですが この3つの国はかなり独自の文化を持っています。 むしろその昔ハンザ同盟(なつかしい!世界史)の中にいたので ドイツ的な色合いの方が濃いくらいで 首都のリガ(ヤンソンスの生まれ故郷)ではワーグナーが活躍していて 近年ではワーグナー音楽祭が始まったそうです。 ヤンソンスは、まだラトヴィアがソ連の中にいた時代に育ち、 音楽を勉強したとはいえ、れっきとしたラトヴィア人。 ヴァイオリンのギドン・クレーメルもチェロのミッシャ・マイスキーもリガ生まれなので、彼らについても同じことがいえます。 クレーメルにしてもヤンソンスにしても、その演奏の中に、 たとえばダヴィド・オイストラフやエフゲニ・スヴェトラーノフと同質の音楽性を感じることはむしろ難しいのではないですかね? あと、もうひとつは ヤンソンス/コンセルトヘボウの演奏したベートーヴェンが ピリオド・アプローチによるものであった、と書いたものが 多かったこと。 ピリオド・アプローチというのは、一概に「こういうものです」 とは言えないのですが、 う〜〜ん、ごく簡単に言えば、 今の楽器のように弦楽器にビブラートをたくさんかけず、 すっきりと響かせ、それとともに句読点?もはっきりと、 フレーズをひとつひとつ明確にしていく、 ベートーヴェンならベートーヴェン、モーツァルトならモーツァルトの時代にこういう(言葉使いならぬ)「音使い」で演奏されていた、というやり方を現代に復活させたやり方。 (私はかなりおおざっぱに書いています。ただ現在、普通に聴かれる演奏というのが、音の扱いにしても、楽器の演奏法にしても長い時間、厚い伝統の中で作曲当時から相当変わってきてしまった、というのは確かです。文学において、現代文と古文が同じことを書いていても全然違う記述になる、というのに近いかな?) 現代のベートーヴェン演奏はこういうのがだんだん主流になりつつある、 というのは事実だけど こないだのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏、そうだったかなぁ? 私にはそうは聴こえなかったのですが。 確かに早めのテンポでキビキビと、ギュッとしまってて フレーズのひとつひとつをかなりはっきりと、絶対あいまいにならないように演奏していたのは確かですが。 一流の、そして曲のことを第1に真摯に考える演奏家であれば、 (特にヤンソンスのような真摯一徹な人なら尚更) 自然にそうした演奏になる、と思いますね。 「普通の」演奏をする人も、ピリオド・アプローチをとる人も結果、あまり変わらないところへ行き着くのではないでしょうか? 往年の名演奏家の演奏を聴くと、意外にそうしたものがありますよ。 ごめんなさい。なんとなく自分のもった疑問だけは書いておいた方がいいな、 と思って今日はこんな日記になりました。 決して嫌味を書いたり、アゲアシをとりたかったわけではありません。 色々な意見が伺いたいです。 ...
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