ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

追悼。ベリオ - 2003年05月29日(木)

イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオが死んだ。77歳。

ベリオは作曲界の大御所で、現存の作曲家ではフランスのブーレーズ、ハンガリーのリゲティ、ドイツのシュトックハウゼン(この人は今、ちょんとした活動をしているのか?)
と並ぶ大家であった。

ベリオの作品、といっても「ああ、あの曲!」とピンとくる人が何人いるかわからないが、
まず音楽を勉強した人にはなんと言っても「シンフォニア」だろう。
私は音大時代、現代の音楽における“コラージュ”という技法の代表例として、はじめてこの曲のCDを聴いた。
“コラージュ”とは書いたとおり、大体想像できると思うけど、複数の違った要素を「重ねあわせる」というようなもので、絵画や映画では一般的な手法だ。
この「シンフォニア」という曲の場合、第3楽章にマーラーの「第2交響曲・復活」の第3楽章がとうとうと流れる中、他の色んな曲、例えばベートーヴェンの「月光」だとかが乱入してきたり、その上でなんだか意味のわからないセリフや笑い声が重なったりする。
いかにも現代的、(そういう心象風景を描いた映画とかあるでしょう?)という感じで面白い。

私はこの曲のライヴは1995年の「ブーレーズ・フェスティバル」でブーレーズ指揮シカゴ交響楽団とスウィングル・シンガーズ、というこれ以上考えられないような豪華版で聴いた。
CDで聴くよりはるかに面白かった。

しかしながら、私はその他のベリオの曲、ピアノや管楽器、弦楽器のソロのために書かれた「セクエンツィア」シリーズとか有名なものはあるが、私はあまり感心せず、彼の熱心な聞き手とは全く言えない。

ただ、昨年「ポリーニ・プロジェクト」で聴いた(聴かせてもらった?)「アルトラ・ヴォーチェ」という曲は素晴らしかった。
初めてここで彼の真骨頂、というか到達点を聴いた気がする。

昨日の朝日新聞の死去欄には「電子音楽のパイオニア」という見出しになっていたが、その代名詞はドイツのシュトックハウゼンの方なのじゃ?と思う。
もちろん、そういう方面に力を傾けていたのは確かだが。

「電子音楽」とか「コンピューター音楽」というクラシックにおけるよび方は、専門家はいざ知らず、かなりの人に − 音楽ファンのみならず、評論家・批評家ですら − 半数以上の人が誤解しているように私は思う。
つまりゲームセンターで鳴ってるピコピコピッコンみたいな感じに思ってて、全く敬遠しているらしい。

実は私もかつてそうだった。
それが全く間違いだと知ったのは、さっき書いた95年の「ブーレーズ・フェスティバル」でブーレーズの「レポン」という曲をディズニーランドの隣のベイNKホールで聴き、圧倒的な衝撃を受け、その仕組みについてそのスタッフの方々に聞いてからのことだ。

あまり難しい話は避けるが、作曲家たちが電子的なテクノロジーの力を借りるようになったのはうんと単純に言って「新しい音色」の開発のためだ。
(あと空間的なサラウンド効果とか、リズムの管理とか色々あるのだが。)
そのためにベリオやブーレーズ、シュトックハウゼンといった人たちは、その昔、電子音楽スタジオのようなものを作って、新しい音色の合成を研究していた。ただ初期はその作った音色はテープに収録するしかなく、それを生の舞台で「演奏」するにはただそれをかけるか、ピアノなり何かの楽器と一緒に演奏するしかなかった。
当然、それではただの「カラオケ」である。
生き生きとしたナマのコンサートにはならない。
それにその段階ではただの「電子音」で味も素っ気もない。
到底アコースティックな音の魅力にはかなわない。
でもそれが限界で、そういうパフォーマンスは随分続いたのだ。

それを解決したのが、高速演算を可能にしたコンピューターだった。
例えば、オーケストラが舞台で演奏している。
その音をマイクで拾い、ほとんどコンピューター内で音の要素を分解・再構築して別の新しい音に変換、リズムを変える操作さえほどこしてすぐに外部スピーカーから流す。
要するに自分の音楽とその場でセッションできる、という具合だ。
その変換までの時間差など0コンマ0000…何秒だから、それは人の認識できる遅れにはならない。
こういうシステムで書かれた音楽を
「ライブ・エレクトロニクス」
と呼ぶのです。

最初の頃こそ、それを可能にするコンピューターはバカデカかったらしいが、極端に言えば今ではノート・パソコンでもできるらしい。

その「ライブ・エレクトロニクス」で作曲されたベリオの「アルトラ・ヴォーチェ」は素晴らしかった。
舞台の上に机が置いてあり、その前にフルーティストとソプラノ歌手がインカムみたいなヘッドホンをつけて、まるでニュースキャスターのように座っている。
そして2人は吹き、歌うのだが、次第に舞台上部にあるスピーカーからその2人の音が少しずつトーンを変えながら霧のようにしみだしてくる。
その音楽たちがどんどん混ざり合い、神秘的なまでに美しい瞬間を作り出すのだ。
そのコンサートを聴きにいった人にはわかってもらえると思うけど、それはとても機械を介してスピーカーからでた音ではない!
どっちがナマでどっちが機械の音なのか全然わからなかった。
「ライブ・エレクトニクス」はここまできたのか!と感動したっすよ。

それがベリオの最晩年の作品。
彼らは新しい音楽の可能性、新しい感覚というのを真摯に追い求めていたのだということを、目の当たりに実感させてくれた。

合掌。



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