ろーずまりぃ☆たいむ

2009年05月30日(土) 千の風

2009年05月30日
本日は極めて個人的な事ゆえに以下白文字隠しとなります。

季節の変り目を告げるような強い風
に乗り、母の弟である叔父が千の風に
なりました。
昨年の夏から原因不明の体調不良が続き、
何度も市立病院で検査を受けていたのですが
その都度「どこも悪くない」と自宅に
帰されていました。
今年のお正月に会ったとき、あまりの顔色の
悪さに母も心配し、深刻な病気じゃなければ
良いけれど…と思っていました。
2月に腰の痛みで通院していた整形外科で
MRIを受けたところ、骨に影があるというので
その結果を持ち再び市立病院の診察を受ける
ことになったと連絡がありました。
数日後、電話で叔父の口から直接「先生から癌告知を受けた」
との知らせを母が受け取ったのです。
最近、市立病院の方針で、癌の場合本人へ告知を
最初にしてしまうとの事でしたが、家族を呼ぶ等の
配慮も見せず、いきなりの告知だったらしいのです。
叔父はどちからと言えば神経質で心配性でしたから、
いきなりの告知は控えて欲しかったと今でも思います。
その時点での叔父の病状は、肝臓が全て癌細胞に
やられ、骨への転移が始まっている状態でした。
即刻入院でしたが、癌の進行が予想以上に早く、
更に難しい部位のため、この時点での手術は不可能、
出来る限りの放射線治療と投薬による治療しかない
との診断でした。
4月下旬、病状も安定し通院による治療のため
一旦退院、叔父本人も体調も良かったし叔母や
従兄達も少し安堵していたのです。
しかし、5月の連休を待たず再入院となり、この
時点で叔母達家族には「もってあと一ヶ月」の
余命宣告がありました。
姉である母も毎日のように見舞いに行っていました。
私は決算期と重なり、仕事に振り回されている時期で
中々お見舞いに行けなかったのが悔やまれます。
母達4人兄弟が子供の頃に亡くなった父親(私の祖父)も
従兄達が学生時代に亡くなった母(私の祖母)も5月に
旅立っているのです。そんな事があり叔母も母も、叔父が5月に
旅立ってしまうのではないか、と薄々覚悟はしていた
ようです。
29日の早朝、電話があり「先生から今のうちに会いたい
人達に連絡するように言われた。」と叔母から連絡が
あったため、出勤前に母と一緒に病院へ向かいました。
朝の時点では然程様子も変わらず、話しかければ反応
しましたし、手を握ればちゃんと握り返してくれました。
これならまだ大丈夫では?と思っていたのですが、
従兄は「先生から血圧が下がってきているので、持って
今日明日中だと言われた」と説明されたのです。
東京に居る下の従弟にも連絡してあると言う事で、
叔父本人も、「Y(次男)にどうしても言っておきたい事がある」
と言う事で、がんばっていました。
私は何かあれば連絡をお願いし、一旦出社しました。夕方
母から連絡があり、早めに退社し病院に向かいました。
朝から見るとかなり苦しげな様子で、声を掛けても
薄く目を開ける程度、手を握っても朝のように握り返しては
くれません。こちらに向かっている従弟もまだ到着できていません
でした。従兄は「弟が来たら、すこし強い薬を入れてもらうことに
してるから」と回りに集まった親戚の人達に説明していました。
夜の9時過ぎ、やっと従弟と奥さんが病院に到着し、叔父の家族が
揃いました。母や私、母の妹である叔母と叔父は家族だけに
するために病院の控え室に下がりました。
日付が変わる少し前、明日の仕事もあるからと私だけが
自宅に戻ることにしました。強めの鎮痛剤を投与されたためか
苦痛も和らいだ様子の叔父に挨拶し、私は病院を後にしました。
それが叔父との最後の別れとなりました。
今日の早朝、母から携帯に連絡が入り、急いで病院に向かったのですが
病室に着いた時には叔父は家族に看取られて旅立った後でした。
「土曜日の、それも朝に逝きたい。夜に逝くのは嫌だ」と
願った叔父の願いどおり、朝の光に導かれての旅立ちでした。
担当の先生の最後の診察を終え、看護士さん達に清めてもらい
叔父は生まれ育った家に無言の帰宅をしたのです。
夜に弔いを終えてから自宅に戻った折、母に「担当の先生からの
解剖依頼はなかったのか」と聞いてみたところ、やはり叔母と
従兄に病理解剖の依頼があったようです。しかし、従兄が
病理解剖も癌細胞の検査も断って、早々に自宅に連れて帰った
との事でした。
従兄の考えはどうだったのか、は私には判りません。
それでも昨年来からの市立病院の検査やその対応、更に
配慮の足りない本人への告知等、周りで見ていた私ですら
どこか病院の態度に納得できない部分があります。
担当の先生も、緩和ケア担当の先生も本当によくしてくれて
いたようですし、叔父本人も「良い先生達だ」と回りに
言っていたのも事実です。叔父の病気がかなりレアな
ケースな上、有効な治療法方も見つかっていないという
現状からすれば、「以後の医療への貢献」にもなるし、
と病理解剖への理解もできるのです。でも人間の感情は
理屈だけでは割り切れない部分もあります。従兄がどんな
心情であったのかはまだ知る由もありません。
私にとっては血の繋がったたったひとりの叔父であったし、
父が亡くなってからずっと父親代わりでもありました。
母も男手のない我が家で頼りにしてきたし、何より
4つも下の弟に先に旅立たれてしまった訳です。
この地域での葬儀の忌み日が重なり、告別式等は
少し先になりました。叔父としてもまだこちらの世界から
去りがたいものを感じているのかもしれません。



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