日刊オバちゃん白書 --婆ウォッチングのミラーサイトでござる--
* いんふぉめ〜しょん *
2001.3.18〜 24年続けてきて、もはや生存確認

人間の価値を点数で評価してはいけません。・・が。 2001年09月08日(土)



いろいろ考えねばなりません。
しかし、どう考えても
 「程度問題だろ?」
という厭味のこもったひとことを投げかけずにゃぁいられん。

あ、絶叫娘のことざますけどね。
昨日「ヤツの人生はヤツのもの」という
ひっじょ〜〜に聞こえのよいことを書いてしまったのに
一夜明けたらもうコレかい・・

んだってさぁ〜〜〜
大きな声では言えないので小さな声で書くけどさ、
数学が25点》(注:当然100点満点)だったんだよぉ〜〜〜(T_T)

 

ある本を読んでいて「ほほぅ」と思ったこと。
 中学生に自覚を促すには
 何か決定的なきっかけが必要だとか。
 ソレは『怒鳴りつけること』であったり
 『プライドに訴えること』であったりする。

けどね、学校の現場でということだと
よくも悪くも集団の力を借りて、かなりのことができちゃう。
家庭内で親と子が一対一で向き合うのとは根本的に違います。
親も子もリラックスしまくっている、家庭という入れ物の中では
 (いや、そうでもない家庭もあるみたいだけど)
なかなか面と向かってマジメな話がしにくい。
なんとなく小言ぼやきを口にして終わり・・

こと、受験が絡みますと
親はコドモに対するもの言いがどうしても遠慮勝ちになります。
努力が必ずしも結果に繋がらない・・こともあるということを
オトナは知っています。
それでも『努力せよ』とは言いにくいんだろね。

しかし、どんなオトナになって欲しいのか
どんな人生を歩んで欲しいのか、という親の願いは
きちんとコドモに伝えなければならないと思います。
期待が強いとコドモがヘコんでしまうっていう話も聞きますが
期待されないのって、もっと悲しいものがあると思わない?
期待に応えようとする気持ちと
自分の(まだ確立していないにしろ)夢を追う気持ち、
どっちも必要なんじゃないかなあと思うわけ。

受験てのはひとつのハードルなわけよね。
かわいそうってばかわいそうな気もするけど
イヤなことを避けてばかりはいられない。
イヤだな〜と思うことに対して
どんな気持ちで向かおうとするのか。
人間の値打ちのある一面が現れてしまう場面だね。
 (ワタシはあまりヒトのこと言えない)

上にも書いたように
「努力が必ずしも報われない」ことはままあります。
しかし、試験に関しては
努力がそのまま「点数」という結果として現れます。
点数だけに一喜一憂するのはばかげているけれども
ひとつの評価の形として、ず〜〜っと保たれていることを
まるっきり無視するわけにはいきません。

ま、平たく言えば、わかりやすいから。
「○○点、おっ!がんばったじゃん!」
「△△点、なぁ〜にやってたんだ、おマエ・・」

ね?

で、ワタシは絶叫娘にむかってこう凄むワケだ。

 「父に数学の点をバラされたくなかったら
  今すぐ問題集2ページやれッ」
 と・・・

 ←でも本人にもちょっぴり自覚があるし。









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