The Green Hills of Earth
2009年01月23日(金) |
被害者参加裁判…私は反対です / IBM T42が届きました |
東京地裁で、犯罪にあった本人や遺族が法廷で直接被告に質問したり、意見を述べることができる制度を採用した裁判が行われたそうです。
裁判では、バイクに乗った男性をトラックではねて死亡させた被告に遺族が「前方不注意ではなく殺人だと思う」「(遺された)娘の気持ちがあなたに分かるか」などと言い、裁判長に「この思いを反映して欲しい」と訴えたのだそうです。
裁判員制度というものは、意義のあることだと思います。日本という国が、子供に自分たちの責任という言葉を教える事を放棄している今、果たしてどれだけの人が裁判員として正しい判断を下せるのか甚だ疑問という思いもありますが、制度自体の考え方は良いと思います。しかし、この裁判に被害者が同席すると言う事に何か意味があるのでしょうか。
私は以前からここで書いていることですが、被害者やその遺族に意見を求めたら「相手に厳罰を」と言うのは当たり前だと思っています。特に被害者が亡くなっていれば、遺族の思いは「目には目と歯を」でも収まらないでしょう。
私はこの事件の状況は分かりませんが、右折するトラックと対向車線のバイクが衝突してバイクに乗っていた男性が死亡したと言う事故だそうで、今の法律ではバイクがどんなに暴走しても自動車側により重い「弱者保護」の義務を課せられます。しかし、現実的には(特に都会では)結構多くのバイクがその身軽さから無謀な追い越し、追い抜きを繰り返していますし、交通ラッシュ時は数珠つなぎに連なった自動車の陰に隠れてバイクは目立たない存在になっていることも確かです。
遺族は「これは事故ではなく殺人だ」と叫びます(気持ちは分かります)が、事故を起こしたら死と隣り合わせのバイクに、34歳にもなって、愛すべき妻も子供もいるのに乗っていることに責任はなかったのでしょうか。バイクという手段を選んだ時点で、もしもの時は自動車と比較にならないほど危険を背負っているという自覚は家族にあったのでしょうか。そして、被害者の男性は、目立つ色の服を着たり、自動車の陰に入らないなど自己防衛運転はきちんとできていたのでしょうか。そういう運転をしていて尚事故にあったのであれば加害者を責めることはやぶさかではありませんが、多くのバイク乗りの人はそういう事を考えずに運転しているように思います。また、家族が「バイクは危ないもの」ときちんと認識をしていたなら、結果は違ったものになったかもしれません。
私がバイクを運転していた時も、かなり無茶をしていました。そして何度か事故もありましたが、幸いなことに生きています。ただ、経験を重ねて分かったことは、渋滞する道路では車と車の間又は車と路側の間をすり抜けるのですけれど、車と路側の間は、そこに(どんな小さな物でも)交差点があった場合はそこで追い越しはしてはならないし、交差点だけではなく、駐車場や店先なども同様、いつ車がそこに駐車しよう、曲がろうと思うかは分からないし、多くの車は規則通り30m手前、3秒前から方向指示なんかしてくれないと言う事です。また、交差点などでは前を走る車が突然右左折する事もありますし(前述のように、方向指示はあてになりません)、前方を走る車の陰に隠れて対向車から見えないこともあります。自分からは見えていても、対向車からは目立たない色の服やヘルメットで見落とされると言う事もあります。
自動車教習で習うことですが、アクティブセーフティ、パッシブセーフティと言う言葉があります。規則を守って安全運転をするだけではなく、相手から見られやすい格好をすることや、相手がどのような行動をするかを考えて動くことも大事ですが、果たしてこの被害者はそれらを完全に実践していたのでしょうか。想像で申し訳ありませんが、私にはそうは思えません。バイクに乗っている時、自動車を運転している時、歩いている時、さまざまな状況でバイクに乗っている人を見ますが、本当に多くの人が、自分の能力、バイクの性能をまったく省みず、更に危険予知など全く考えていないかのように、「通らばリーチ」的無謀運転を繰り返しているように見えます。自分でバイクを運転している時でさえ、一番怖かったのは車や歩行者ではなくバイクでした。果たしてこの被害者はどのような運転をして事故にあったのでしょう。(誤解のないように明記しますが、私は今でも自分をバイク乗りだと思っています。バイクを否定するつもりはさらさらありません。ただ、下手糞が氾濫しているとも思っているだけです)
事故を起こしたら大きなケガ、死亡に結びつく危険性を承知で乗っていたのなら、遺族の型は文句を言うべきではありませんし、もし知らなかったのならそれは認識不足です。事故を起こさない運転をしていたかどうかについてもそれが確実に守られていなかったのなら、それを「殺人」と呼ぶことはできません。あくまでもお互いに過失がある事故でしかありません。
私が幸い軽傷では済みましたが、当て逃げにあった時、やはり私は裁判に参加して文句を言いたい気持ちもありましたが、何より相手にどんな判決が出るのか知りたかった。しかし、その時の法律では被害者には、いつ裁判が行われるか、どんな判決が下ったかは知ることができませんでした。いや、足繁く裁判所に通ったりしていれば分かるのかもしれませんが、普通に仕事を持つ身では分からなかった、又はそこまでの情熱がなかったと言っても良いです。その当時は「何で被害者がそれを知ることができないんだ」と憤りましたが、第三者の目で見て、やはりそれは正しいと言う気持ちもありました。出て意見を言ったところで、感情的な意見しか言えないのは目に見えているからです。
果たして、この裁判制度は必要なのでしょうか。少なくとも今の制度が「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の上でできているのであるなら、この被害者の感情垂れ流しは被害者の鬱憤晴らし以外に何の高架があるのでしょう。加害者は遺族に向かって「すみません」と言う意外何ができるでしょう。 もし、こういう制度を実施するなら、私が先に書いたように、死亡したから一方的な被害者ではなく、お互いに注意すべき点があったと言う事を被害者にも理解してもらう場にしなければならないと思います。そうでなければ、加害者はいたたまれないだけ、精神的苦痛を負うだけだし、被害者は誤解するだけになってしまいます。
感情を抜いて、司法という見地から事故を見つめた時、一方的被害ではなく、お互いに反省すべき点があるからこういう判決になるんだとお互いに理解するための制度でなければ、これは全く意味のない拷問でしかないと言う点で、私はこの制度には今時点では反対です。
IBM T42が届きました。
オークションで中古品を買う場合、その評価は個人差があるため、出品者が「上物」と判断しても、落札者は「中の下」と判断するかもしれない危険がありますので、物が届くまで結構ドキドキしています。
今回もそんな感じで待っていましたが、届いた物はまぁまぁ満足できる物でした。 まぁ、落札した価格が自分の予定した金額より少し低く抑えられたので、多少の傷があっても「まぁ、値段が値段だしね」と笑って許せるかなと言う余裕もありましたけれどね。
多分2005年製らしいこのパソコン、キーボードに多少てかりがあり、「↓」が少しはげています。まぁこれくらい気にすることもありませんが、オークションで新品キーボードが\4,980-で売られているのを見ると、ついつい手を出してしまいそうです。
トラックポイントの赤いカバーはオークションで新品を買うことにしました。私はこれのクラシック(頂点が平らではなく丸くなっているタイプ)が好きなんです。
すでにクリーンインストール済みだったのですが、一応の動作確認を済ませた後、改めてクリーンインストールをしてみました。全く問題なしです。細かいことを言えば、液晶の中央部分に小さな傷があるとか、あれこれありますけれど、実用上には全く何の支障もありませんし、美品と言えるんじゃないのでしょうか。
半日使ってみての感想。 やはり1400×1050の液晶は広くて良いです。ただ、PentiumMの排熱はすごいです。さわれなくなると言うほどではありませんが、膝に載せて使っていたら、今の季節はちょうど良い暖房になりますね。時々「動作が遅い」と思う時がありますが、多分それはメモリが512MBしかないためでしょう。X30を使っていた時、512MBと1GBとを経験したのですが、明らかに体感速度が違っていました。今回も同じと思われます。メモリは1GBをオークションで落札しており、明日届くはず。それでこの問題は解決すると思われます。
買った機種は何度かマイナーチェンジをした中で最後から2番目のタイプ。多少は意識していたのですけれど、何より急いで落札をしなければならなかった状況の中では、運良く良い物に当たったと思います。
うーん、仕事に使うパソコンですからあんまり金をかけたくないんですけれど、ついつい使いやすくて魅力的なパソコンですから欲が出ちゃうのが難点と言えば難点ですね。やはりIBMのノートパソコンは良いですわ。
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