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2008年06月18日(水) 死刑とは

亀井静香さんを会長とする「死刑廃止を推進する議員連盟」は、宮崎勤死刑囚らに対する刑の執行に抗議して「死刑制度は抑止力がない」「死刑によって人の命が国家権力に消されたことで、何か国民の幸せにつながるのか」と言う抗議をしたそうです。

何か論点がずれているように思えてなりません。
彼らの死刑が、国民の利益になるかどうかが論点ではなく、自分の犯した罪が命の代償をもってしか償えない程の罪だったと言うだけのことなんでしょ。

私は、こういう事件の度に書いているつもりですが、裁判は、当事者やその身内の感情を切り離して判断をしなければならないものです。
被害者(やその身内)に「犯人に何を望みますか?」と聞いたら、多くの場合「死刑にしろ」と願うでしょうし、「もっと重い罪を。(奪われた)人の命はそんなに軽くはない!」と叫ぶでしょう。その言葉を全て受けていたら、日本はそれこそ死刑囚で埋め尽くされてしまいます。逆に犯人の人権などと言うものを尊重しすぎてしまうと、それこそ、この裁判は誰のため、何のために開かれているのか、その論旨がぼやけてしまうことになります。

裁判は当事者の感情にとらわれず、罪の大きさを量り、それに応じた償いの機会を与える場でなければなりません。そして、今回の争点である宮崎勤などのように、どんな理由をつけても、その命をもって償う以外に方法がない人もいると私は思います。先日の秋葉原の無差別殺人や、飲酒運転で死亡事故を起こした人など、身勝手の結果人の命を奪った人が、その償いをするのに、自分の命を絶つ以外どんな「償い」ができるのか私には理解できません。意図しない理由で、または許されることではないけれど、虐待を受けていたなど情状酌量の余地がある殺人などと違い、身勝手の結果で罪もない人の命を絶った犯人は、ただ世間と隔離され一生を折の中で過ごすだけで命を絶たれた人は報われますか。それが誰の幸せにつながりますか。幸せを感じるとしたら犯人だけじゃないですかね。それが裁判の結果で正しいですか。

死刑制度が抑止力である必要はありません。また、その結果が誰かの幸せにつながるものである必要もありません。ただ、罪の償いの大きさであるだけなのです。
どうか、こういうきれいごとを言う大馬鹿者は、その辺りの論点をすり替えず、きちんと罪を償うこととは何かを考えて発言して欲しいものです。


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