The Green Hills of Earth
2005年06月05日(日) |
分相応とは / ダブル定額って? |
昨日の日記に誤字を発見して、それを修正するとともに、ちょっと文章の書き直しもしようと思ったのですが、その文章が長くなるような気がして、今日改めて別に書き起こしてみる事にしました。 私が、私の選んだオーディオセットを持つことが「分相応」なのか「不相応」なのか…なぜ、私がそう思っているのかを、その考えは時々この雑文の中にも書いている事ですけれど、凄く抽象的で基準も曖昧ですが、「良い物には、それを持つにふさわしいかどうかの基準がある」と私は思っています。他人が私の意見に従うべきだとは思いませんが、私の行動基準、判断基準という事でです。
例えば車やブランドバッグ。金さえ出せば買えます。相手も売るために日本に店を出店してきているのです。でも、それらを買うのは「誰でも」ではなく、「そろそろ、これをもってもおかしくない年齢になったかな」と言う基準があるべきなんだろうと私は思っています。「好きなものを買って何が悪いか」と言われたら反論する材料はありません(しつこいですけれど、ほかの人にそう言うつもりもありません)。
そう思うようになった経緯はあれこれあります。 例えば、バイクで通勤をしているとき、私の前を走るバイクが信号待ちをしている車の脇をすり抜けるとき、BMWのミラーにほんの少し当たってしまいました。バイクはそのまま走り去って行ったのですが、BMWを運転していた若い男はそれこそヒステリックに何かを怒鳴り、ホーンを鳴らしていました。確かに逃げたバイクも悪い。しかし、ミラーにバイクのハンドルなどが当ったところで傷がつくはずもありません。まぁそんな事は知らないのかもしれませんが、「ばかやろー。俺の車は外車だぞ」と叫ぶ位なら、国産車に乗っていたら?と思うのはおかしいでしょうか。「外車」ってやつは本当に部品が高いんです。国産車なら数千円で買える物も外車というだけで何万円もするのは珍しい事じゃありません。そういうことを理解した上で、その出費を国産車での出費と同レベルで考えられる経済的余裕、精神的余裕を持って初めて「外車」に乗るべきなんじゃないの?と私は思ってしまう訳ですよ。 所謂イタ車や英国車は「すぐに錆びる」「雨が降ったら動かない」「1年の半分は修理中。残りの半分は故障中」と言われる位に故障、トラブルが多く、国産車と同じ感覚では乗れません。まぁそれらの言葉の殆どは大げさと言うか、自虐的な、逆説の自慢話みたいなものと私は理解していますが、そういう苦労をしてでもその車を持ち続ける楽しさを理解している心を持つ人なら「俺の車は外車だぞ」とヒステリックに叫んだりはしないだろうなぁと思う訳で、つまりそう叫ぶ奴っていうのはブランドイメージだけで買った「ミーハー」なんだろうと思った訳です。
また、ある時ある文房具屋での事。いかにも「成金」と言うか、「あぶく銭を手に入れたばかり」と言う雰囲気を丸出しにしたおっちゃんがショーケースに近付いてきて、店員に開口一番「一番高い万年筆をくれ」と言いました。店員は少し唖然として「万年筆ですと筆圧や文字の太さなど…」と説明をしようとしたのですが、それを遮っておっちゃんは「いいから一番高いのくれ」と面倒くさそうに言い放ちました。 万年筆が手になじむかどうかはその太さや、筆圧にあったペン先など、さまざまな要因があります。1000円で買えるような安い物ならペンに自分を合わせるというか、どんなものでも良い矢と思えますけれど、「一番高いもの」と10万円を超えるような物を買うなら、その辺りを吟味したら良いんじゃないのかな。と言うか、そういう事も疎かに、ただ「一番高いもの」を持って満足するって凄く格好悪いですよね。街に腹巻、タオルの鉢巻姿で現れてそれを言ってのけ、興味から覗いてみたら、やはりベンツに乗っているけど、本当垢抜けない「成金」丸出し。あれはいただけないなぁ。もう少し風格がついてから出直してきなさいよと言う気持ちが否めませんでした。
まぁ世の中には代々金持ちの家って言うのがあるもので、昨今テレビに出てくる「せれぶ」と言う成金の人と直接お会いした事はありませんので、その人たちがどれだけ金持ちの家で、どれだけ贅沢をしているかは存じませんが、私の目にはブランドや金持ちであるように見えること、ブランドの地域に住んでいることを自慢したいだけの人たちにしか見えません。というのも、江戸時代から続く旧家、その時代からのお金持ち、そうちゃきちゃきの江戸っ子ならぬ、ちゃきちゃきのお金もちよぉって言うのが友達にいるのですけれど、彼(女)らはブランド物を持っている事を意識させません。極端な話をしたら、普通の格好をしていると思っても、服は有名ブランド、時計も有名ブランド、カバンも有名ブランド。ブランドに着られることなく、自然に溶け込んでしまっている感じです。そして歳相応(若い)に小汚く見えます。そう「せれぶ」の人って服やカバンや時計だけがこぎれいに見えるんですよね。何でそのブランドを使っているの?と聞くと、「この時計とカバンはおばあちゃんが使っていたもの」とかそんな言葉がさらりと出てきます。そう、昨今のブランドブームに乗って買ったのではなく、何十年も前から大切に使われてきたものを使っている「だけ」なんですよ。
もうひとつは5年ほど前に書いたのですが「粋」と言う考え方が日本人にはあったんですよ。ぼろぼろの着物を着ているけど、裏地には正絹を使う。目に付かないところで贅沢をすることこそが「粋」なのに、なぜ、みんな短絡的に人に自慢できるものに金をかけるんだろうと思ってしまう訳ですよ。 そんな経験を総合して、「ブランド物」を手にするには「相応の風格が必要」という結論に達した次第です。
そして、私の持つオーディオセットですが、それこそ定価ベースで言えば100万円を超えるような装置ですので、いくら中古とはいえ贅沢ではある訳です。賃貸アパートに住んでいるときは、隣近所への配慮から音も大きくできないのでそれこそラジカセで十分と諦めていた事が、この分譲集合住宅を買ったことと、この分譲集合住宅の防音がかなり優れていて心置きなく大きな音が出せると言う事は、ある意味「持っても良い環境」を手に入れた事になります。しかし、「それを持っても良い『風格』?」と言うと「?」です。車やバッグ、万年筆などのように人様の目に触れるものでもありませんし、そういう意味では車やバッグに金をかけるより家の中の設備としてオーディオ装置に金をかけるのは「粋」に通じるのだろうか等と屁理屈をこねてみたりして…まぁ冗談は兎も角、自分の収入などを考えてみるとこのオーディオ装置は贅沢すぎるかもしれません。しかし、これより高い車を持つ人はたくさんいます。でも、車は実用品だけど、これは嗜好品… うーん、考え始めると悩むのですよ。それは結局「自分の(語弊はあるけど)「風格」はどれだけあるんだろう」と言う疑問に行き着くんです。まぁ年齢なりの「風格」はあると思いましょう。でも、大事なのは「+α」の部分なのです。歳を取れば勝手についてくる部分だけじゃなくて、自分の経験や努力その他あれこれが混ざって出てくる自分の匂い(加齢臭じゃないですよ)…そういうものがどれだけあるのかが大事なのですが、それを自分で推し量るのは難しいです。その難しい中であれこれ考えて、昨日書いたように、少なくともここに住んでいられる間、貧乏はもともとですが人に迷惑をかけない間はこれをもっていましょう。それ位の「風格」はあるでしょうと考えた次第。長文の割りに抽象的で良くわからない文章になってしまったと思います。自分なりに気持ちを整理したかったので書いたので、その内ひっそり書き直すかもしれません。兎に角支離滅裂ながら今の自分の気持ちでした。
しかし、私の持っているゼンマイ式腕時計はSEIKOのGrand SEIKOというSEIKOのフラグシップモデルのひとつです。分不相応?といえるひとつです。使い捨ての時計と違って一生、いや、子供や孫の時代まで使える時計なのです。子供のいない私が持つには如何にもふさわしくない時計です。そんな時計を持つ風格が私にあるかというと、お腹の大きさはふさわしいかもしれませんが、まぁ実際問題として「否」です。でも、そこはスチャラカな私ですから「機械物に弱いんだ」で済ませてしまう訳です。まぁ、IWCとかフランクミューラーとかそんな海外ブランドじゃないから堅実な時計を買ったと言う事でお茶を濁します。
携帯電話「au」の料金体系に「ダブル定額」「ダブル定額ライト」と言うものがあります。
ダブル定額ライトを例に取れば、12,500パケットまでは最低料金の1,050円で、それから先は52,500パケット4,410円まで従量制で、それを上限に後は使い放題となると言う事らしいのですが、これってどこがダブル「定額」なんでしょう? 「定額制」と言うのは「単一の料金でそれ以上の料金追加のないことを言う訳でしょ。確かに12,500パケットも使わない人には安い料金で提供すると言うのは売り文句なのかもしれませんが、どちらかと言えば「『12,500パケットに満たなくても1,050円をぼったくる』4,410円の定額制と言う表現の方が正しいんじゃないでしょうか。
別にauに恨みがあるとかそんな事は一切ないのですが、その表現に疑問を感じた次第です。果たして皆さんは同思われるでしょうか。
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