The Green Hills of Earth

日記内検索は目次ページにあります。
☆★CF-W2関連:「分解/HDD交換」 / 「キー清掃」★☆

2004年09月20日(月) なぜ死刑反対なのか / うーん なぜだろう / 柔道

世の中には様々な考え方があって、自分に理解できない事もあると言うのは重々理解していますが、目の前で理解できない事が起きると呆然としたり、怒ったり、逃げ出したりする訳です。自分と同じ考えの人ばかりでは世の中が成り立たないし、理解できない人がいるのが面白いとは言え、どうしてそんな考えにいたるのかなと不思議に思うと同時に、その考え方に不愉快を感じつつ、そう思う自分にそれは危険な考え方だと諌める自分がいる訳です。なにか訳の分からない言い方になってしまいましたね。

先日刑を執行された、宅間死刑囚が獄中結婚をしていた訳ですけれど、この女性、「同年代の女性。以前から差し入れをしていた。精神的な支えになりたい」と言う事が報道されていますけれど、果たしてどんな人なんでしょうね。
今回、死刑を執行したことについて、職員が彼女の元へ報告に行くと「法務省は人間の更生に力を貸してくれる場所じゃないんですか?」と言ったらしいですが、何か勘違いしていらっしゃらないですかね。この話は東京で開かれた死刑執行に抗議する市民集会に寄せられたメッセージに書かれていたとの事です。

先日も書きましたように、私は大きすぎる罪を犯した人は死刑にするべきだと思っていますし、この死刑執行に抗議する市民の皆さんも、死刑に値するような重大犯罪の被害者が家族身内だったら、途端に死刑にするべきだ。同じ苦しみを与えてやりたいと口をそろえて言うと思います。自分に関係のない他人事だから理想論を気軽に言える訳です。兎に角、この獄中結婚をした人も宅間に愛情があった訳ではなく、単に自己犠牲愛に陶酔してしまっているだけのように思えます。誰にも心を開かないあの人を、私の愛で包んであげたいとか、心を開かせてあげたいとかそんなものでしょう。春先のイラクでの人質事件で「それでもイラクの人を嫌いになれない」とか言った女性たちと同じレベル。
私は、死刑とは一番安易な逃避だと思います。子供を殺された親のショック、子供の恐怖や痛み、そんなものをこの男はどれだけ償ったでしょうか。退屈な独房にいるだけで、どれだけの反省が出来たでしょう。いや、彼は反省などするつもりがなかったので、何も反省などしなかったでしょ。実際には反省をしたかどうかなんて問題じゃないんです。どんなに反省をしても子供は戻ってこない。事実は覆せない。そして彼が犯した罪を一生かけて償うとしたら何が出来るのか。出来やしません。手足の腱を切って動けないようにして、被害者の親にナイフや針、鋏などを持たせてきり刻ませたとしたら少しは償いになるでしょうか。多分被害者の親は「殺してやりたい」くらいに憎く思ってはいても、いざそう言って凶器を渡されたとしても、同じかそれ以上の苦しみを与えながらじわじわ殺すなんて事はできないでしょうし、まずは殺すことも躊躇しちゃうんじゃないですかね。それが普通の人の反応です。
罪を償えないのに、刑務所の中で安全に、税金で衣食住を保障しながらのうのうと暮らされる事以上に腹立たしい事がありますか。更に縁起でもない事ですが天皇崩御なんて事があれば恩赦で出所なんて事になりうるんですよ。

この事件について、この死刑執行についても様々な意見が様々な視点から書かれているのを読ませていただきました。しかし、どんな場合にも死刑には反対だと言う意見を特に念入りに読ませてもらったのですが、残念ながら私はそれに共感することが出来ませんでした。マクロ(巨視)的な視点に立って眺めて、人間は罪を許されなければならないという視点なのでしょうけれど、その文章のどこを見ても「そんな事は分かっていて当然」と言うのが根底にあるようで、「なぜそう思うのか」がきちんと説明されておらず、私のようにその意見の根拠をしりたいと思う者にとっては「なぜ?」がたくさんある文章でしかなかったのです。つまり根拠のない感情論であって、説得性にかけていたと言う事です。
残念ながら私はキリストもお釈迦様も信じてはいません。必要と思う人にまで否定はしない程度に、心のよりどころとしての宗教の必要性は認めますが、宗教を人生の目標としたり、宗教に傾倒しすぎる人について、私は狂信者として分類します。われわれの対峙するべき相手は神様ではなく目の前の人ですよと言う事が分からない人は相手に出来ません。だからこそ、私は罪も憎むし、それを犯した人も憎みます。そしてその罪を犯した人を形成した親の教育なども憎みます。司法としての弁護側の立場は理解しますが、どんな罪を犯しても許されるべきだとは到底思えません。あるレベルの犯罪からは「目には目と歯を」であるべきだと思います。
死刑に反対される人で、自分の身内に被害者がいる人はどれだけいるのでしょう。そして、死刑に反対される人は税金が無駄に使われていることを理解しているのでしょうか。犯罪者の人権を尊重する事は、被害者やその身内を軽んじるとは思いませんか。その辺りをどなたか説明していただけるか、説明している資料をご存じないでしょうか。

    宗教についての表現は、今回はそれを追求する文章ではないのでかなりいい加減です。キリストは神じゃないとか、そういう突っ込みはご遠慮ください。



うーん なぜだろう

私はインターネットブラウザおよびメールソフトとしてNetscape7.1を利用しています。IEとOutLoockExpressなどのようなMicrosoftのソフトを出来るだけ使いたくない、いつもセキュリティの心配をして痛くないと言う大義名分もありますが、実際にはまぁβ党(死語?)の意地みたいなものって訳じゃないんですが、もともとMacでこちらを使い始めたのが最初だったので、Windowsに乗り換えた今もこちらを使い続けていると言うのが正解でしょう。
ところが、IEのエンジンを使ったソフトみたいなのが結構あって、これを使うためにはIE4以上が必要ですなんて書いてあるものも結構ありますし、そういうソフト以前に、私がこの雑記を書き始めた頃にも書いたことですが(link)、IEでなければ正しく表示されないテキストページと言うものも(最近はSafariじゃないと正しく表示されないと言うのも)あり、テキストを読んでもらうためのページのはずなのに、見るブラウザを限定すると言うのは如何なものかなと今も疑問に思います。他のブラウザでは見えないと言うのは、本来プラットフォームを選ばずに同様の表現が出来ると謳ったHTMLに勝手な拡張を加えたり、それぞれが違うヴァージョンをサポートしたりと言う事からなのですが、それでも、基本的な部分は一緒ですから、凝ったデザインを目指さなければ、どのブラウザだって見えるものが簡単にできるんですよね。テキストを見てもらうのが目的なのか、テキストを見てもらう以上にセンスの良いページであることをしらしめるのが先か、その辺りは製作者の主観に任せるしかない訳ですけれどね。

今年の4月に引っ越したエンピツも編集画面でのタグの挿入などはNetscapeでは正しく動きませんので、泣く泣くIEを起動して作成をしているのですけれど、エンピツでもう一つ致命的ではないけれど困ったことがあるんです。うーん、致命的といえば致命的なのかな。つまりですね、「マイエンピツ」の設定を「利用する」にして保存しても、なぜかその設定自身が保存されないのですよ。CookieだのCacheだのJavascriptなどは有効にしているのですがねぇ。折角ですからマイエンピツとかも使ってみたいのですが、そんな理由でパソコンを起動するたびに舞いエンピツの設定をするのは億劫なので時々必要に応じて利用させていただいている次第です。ソフト屋なんだからそれくらい調べたらよかろーもん供思うんですけれど、そこまでの意欲がないんですよね。なかったらなかったで良いや…あぁイライラする。自分にね。


柔道

先日テレビで、アテネオリンピックで金メダルを取った女子柔道選手の事を短い時間ではありましたが紹介しておりました。残念なことにそれが誰の事なのか名前を覚えていないのですが、多分「北海道出身」と言う事で検索すると、多分「上野雅恵」と言う事になるのでしょうね。確か70kg級と言っていたような記憶もありますし。
その番組では前回のシドニーオリンピックにも参加したけれど、外国選手の力に負け、帰国後腕力の強化に励んだ結果が今回の優勝につながったと言う美談風の話に仕上げられておりました。
しかし、本当にそうなんでしょうか。本来の柔道とは「柔よく剛を制す」であり、本来無差別級しかないものではないでしょうか、つまり国内なら谷亮子と阿武教子やこの上野雅恵が普通に戦う。そして有効だの効果だのと言う点数制度ではなく、基本的に技ありか一本の優劣で決めると言う試合が本来でしょう。柔道は相手の力を利用して技をかけるものであり、腕力で勝負をするのなら柔道である必要はないのです。腕力をつけて優勝を勝ち取ったのであれば、それはどこかが間違っているように思えてなりません。
谷亮子の試合は…というより軽量選手の試合はそれなりに技を鍛えている感じがしますが、重量級は悪く言えば「デブダンス」と見られる可能性もあるでしょう。動きが鈍いから腕力で吊り上げることになってしまうのでしょうか。私はそれは違うと思うのです。どの階級であれ機敏に動けなければそれは柔道とはいえないでしょう。果たして腕力に頼った選手たちはデブダンスを踊ったのか柔道をしたのかどちらだったのでしょうね。

私は以前から「神聖な道場」などと表現を恥かしげもなく使う人に対して、「神聖な道場」とは「不浄な女性」を排除したものであり、女子柔道というカテゴリが出来た時点で「神聖」とはいえないだろうと言っております。そして今の柔道が見ていてつまらないのは、柔道をする人の精神が地に堕ちて武道「でも」なくなってしまったことであると思っているのです。その表れが、一つは技の点数制化であり、試合中に点数計算をして逃げ腰になっている姿が美しいはずがないと言う事であり、もうひとつが、勝った選手が相手への礼を忘れて自分の喜びに浸るあの醜い姿に表れているのではないかと思うのです。ご存知の方も多いと思いますが、剣道では一本を取った喜びにガッツポーズをしただけでその一本が取り消されるのです。相手への礼を忘れたと言う理由でです。相手と戦いをするけれども、その戦いは自分との戦いであり、相手への礼を忘れてはならない。それが東洋的な思想ではないですか。西洋人に東洋思想を(そう括ってしまうのも危険ではありますが)理解できるかどうかは疑問ですが、日本のスポーツを西洋の都合に合わせてルールを改正するのも如何と思いますが、少なくとも日本人が礼の心を忘れて「ただ勝てば良い」という精神になっていることに柔道のつまらなさが現れているように思います。

奇麗事を言っても勝てなければ何にもならないというのも正しいでしょう。しかし、日本人として柔道に対する考え方が本当にそれでいいのだろうか。私はオリンピックの試合を見ていてそう感じ、先の腕力で優勝と言う番組を見てその疑問が更に膨らんでしまった次第。ちょっと時期はずれな話題で申し訳ないと思いますけれど、皆様におかれましてはどうお考えになるでしょうか。


目次(検索)前へ後へHomePage


リンク、引用はご自由に。画像は勝手に持ち出さないことを祈ります。
mail address
COPYRIGHT(C) Lunatic 2002-2010