最初に断っておくと、多分話が重くなる。 もしかすると長くなるかもしれない。
今日学校で講義を受けてきた。 結構好きな教育系の講義。 教科がすきか嫌いかは多くの場合、 教授(先生)によるとおもう。 講義自体も好きだが、その先生も好きだ。 実際、すごいなぁ…と思える教授、先生は少なく そんな中で、結構すごいと思える数少ない人である。
講義の休講もすくない。 その先生が珍しく来週から休みにすると言った。 本人曰く、入院するらしい。
少し講義が進んで、入院する理由を説明してくれた。 …簡単に言うと「血液の癌」らしい。 一度手術をして治ったか思われたが再発したようだ。 最初の手術は血液をきれいなものにして 入れ替える…ような手法だったのかな? それがだめだったので残された方法は 骨髄移植だけらしい。
兄弟は居ないらしく 母親の骨髄を検査するとか言っていたかな。 …母親、肉親であっても これ(骨髄)が適合する可能性は低いらしい。 母親でだめならばドナー(提供者)が現れるのを待つだけ。 もしも骨髄が適合しても ドナーが拒否をすれば移植は行われない。
ドナーが現れるのが先か、それとも―――ということらしい。
なのになぜ普通話していられるのか分からなかった。 わたしならばどうしたであろうか?どうなるであろうか? 普通に授業のことなど考えられるであろうか?
こういうとき死について思い出してしまう。
幼馴染の親戚だったろうか。 喉の癌なのかな。…末期ということらしく 年内もつかどうか分からない、と。
自分の無力さ…というかやるせなさが腹だたしい。 自分の行動には嫌悪感を感じる。 おそらくわたしが…こういう話を聞いて 例えば骨髄提供希望者に登録することはないだろう。
少し考えが広がる。 イラクとアメリカのこと。テロのこと。 多くの人の命が失われるであろう戦争、テロ。
そして私はまた自分に驚いた。 このような状況であっても 戦争絶対反対…という気持ちが沸いて来ない。 賛成はしないけどね。 これだけ一人の死ぬかもしれないという状況で 気持ちが重くなっているのに 戦争について絶対的な否定感が頭に沸いてこないのはなぜだろう。 自分のことのように深く戦争を悲しむことができないのはなぜか。
人の死だけについて考える事はワガママだろうか? 人の勝手で関係ない動植物の命がまた失われる。
そんなことを考えていて、なぜ自分が戦争絶対反対と 声を大きくして叫ぼうとしないのか分かった気がした。
結局のところ、自分に関係ない人たちだからだ、と。
例えば動物愛護を叫ぶ人たちのことも分かるし 戦争反対と叫ぶ人たちのことも分かる。 どちらだって理由は色々あるけど 納得できることは多々ある。
それじゃ、何で共感できなかったのか。 自分に関係ないからだ、と。
いつだったか… 私はペットのハムスターが死んだときに泣いた。 今でも泣くかもしれない。 ペットは飼ってないけどね。
一方で高円宮様が亡くなった時、 或いは路上で「○○家葬儀会場」と書かれた看板をみても 悲しいとは思わない。
そのとき私にとってはハムスター一匹の命が 人の命より重かった。
また一方で、誰か知り合いや肉親が死んでしまったら悲しむ。
もしかするとその葬儀の席で肉が出るかもしれない。 だが、その肉になった動物に悲しみを感じることはないだろう。 この前死んでいた路上の猫にも かわいそうだとは思っても悲しいとは思わなかった。
結局そういうことだと思う。 自分が好きであるからこそ悲しむことができるのだと。 だから私は自分に関係のないところでの『死』を 否定するために、まさに一生懸命にはなれないのだと思う。
こんな私は人としてだめなのだろうか? 戦争は否定されてしかるべきものなのだろうか? ならば何故今戦争が肯定されようとしているのか? 日本という国でさえ肯定している。 不戦を誓いながらも。 新聞を見ればイージス艦派遣の話が載っているだろう。 どんなに理由を付けようと戦争の肯定以外の何者でもない。 では他人の悲しみを増やさないようにと 戦争を否定することは偽善であろうか? 戦争を否定することで別の誰かがやはり悲しむのであるならば それを防ごうとすることは正義であるのか? 何か理由があれば人の命を奪い 誰かが悲しむことを肯定できるのか?
戦争という名の大量殺人行為を私は激しく否定できずにいる。 そして私は誰かの死を深く悲しむときがくるだろう。 生きている限り。 どちらも理屈として自分で分かっているのに、 自分で出した結論であるのに納得できない。
これは一体なんなんだ?
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