1日雑記

2001年08月30日(木) いい機会

無意識の内に時々するんですね。
その人がどういう人であるかを考えるということ。

ごく親しい人に対してはそんなことは滅多に考えないんですけど。
あまり親しくないと、この人の性格は…などと考えることがある。
これが僕の性格によるところなのかは分からないが。

このまえ、このように考えたことを人に言う機会を得た。
これは一つの望みだったのだと思う。…以前は。
自分の考えを人に伝えたい、そういう考えです。

人に対して言ったことの結果。それが非常に…。

話していて気づいたこと。
第一に語彙の不足、ないしは言語そのもの自体の不足。
伝えたいこと、そのうちのほとんどが伝わらない。

次に思考の曖昧さによる人物像の決定。
つまり性格を自分の中で説明、想像する際、
多くは例えの行動で考えていることが分かった。

そもそも人の性格というのは
確かに性格はあるのだろうけど、それ自体を見ることは出来ない。
ありとあらゆる場合、もしかしたら自分自身に対しても
問題のか移動方法、選択肢の選び方、そういった事象に対して
取った行動が性格として見られる。

この人は「かれこれ、こういう人である」という風な説明は出来ず、
この人は、この場合はこういう行動に出るだろう、といった
場当たり的、具体的な問題に対する行動予測しか出来ない、
そういうことです。

その情報量は膨大であり、いや、膨大というより無限大である。
これは言葉に出来きれない、また、言葉に出来たとしても
当然それぞれの事象について完璧に答えられるはずもなく
僕の感じたその人の性格とはある一面、一片でしかない。

だがそれを人に説明しようと思うと
僕のもつ語彙の中からいかにその表現に近いか、というものを捜し
しゃべることになる。

また、しゃべることと考えることは大きく異なり、
言葉にすることによって、思考がまとまる。
これはいい意味でも悪い意味でもある。
というのも、まとまる、つまりはその部分に対して
あまりにも印象が強くなりすぎる。

思考によって色んな場面の想像をするが
そのほんの一欠けらを言葉として伝える。
言葉になったことは強い印象として
他の多くの思考よりも頭に焼き付いてしまう。

結果として、自分に対しても相手に対しても
説明不十分なまま伝わることになる。

そこに嫌悪感を感じたんです。

色々人のことを考えるのはいいだろう。
それを自分の中にしまっているなら。
言葉にするよりはるかに多い情報が
脳の中にはつまっているのだから。

だが、人に言うということは
…あくまで僕の場合ですが
あたかもその人のことが分かったかのようにいってしまう。
それです。自分に対する嫌悪感。

俺のその人に対する考えなんてほんの一面でしかない。
言葉にするのは更にそのうちの一部。
そんなもんで分かってる気になってしまうのが嫌だ。
分かってるように思われるのもつらい。
特に僕なんて人間には。

自分を卑下するつもりはない、
が、思慮の深い人間だと自惚れるつもりもまたない。
それは事実であるのだから。
人生経験にしても20年前後。

そんな自分が人に対する評価、考察を行う。
人自体の性格はそんなことで表現できるほど小さなものではない。



ふぅ…
まぁ…最初っから一面に対する評価、
と考えてしまえば気は楽だけどね。
何度も言ったけど口に出して評価するから
それがすべて、って気になっちゃうんだよ。
言葉に出来ないことのほうが大きいのに。
だから口に出した自分が少し嫌いになったのかもしれない。


 < 過去  INDEX  未来 >


PITZ [MAIL]

My追加