1日雑記

2001年07月18日(水) まとまらないなぁ…

久しぶりに書いてみましょうか。


人の記憶の中で、そこには自分がいて他人(ひと)がいて…。
家があり――そこは人が依るための場所であるのだが
憩い、楽しむ、時には悲しみ、喜ぶ、場。
そこは生活という場であり人というつながりがある。

また記憶とはいえ空気はある。
匂い…雰囲気…とでもいえばわかりやすいか。

その空気、再び感じるときの懐かしさ。
匂い、忘れられぬ。

結局、長い(といっても僕は
      せいぜい20年くらいしか生きてないわけだが)
生活の中で、幾度となく、どことはいわず、記憶をめぐる。
意識的に出会ったり、無意識的にであったり。
その中でそのとき思い出した場所には
今は別の匂い。

帰ろうと…いや、行こうと思うなら行けるのだが。
戻ることはできず。
戻りたくても、戻れても、そこは違う空間。

人は懐かしむことができるし、再び合えることだって。
…一方ではもう、二度と…。
そのとき、どこに行っても、
あの時と「同じような」匂いさえも感じることはできなくて。

人の意思とは別に物は残る。
形あるものいずれは滅す。
それでも形あるものは受け継がれるし
それにはそれの時間がある。

そして形を見れば思いは鮮明になるし
記憶に浸り楽しむことさえも。

ものに限らず、風景でさえ。

これだけの、記憶を思い起こされるものがあれども
永遠普遍なものは一つもない。
その記憶を繋ぎ止めるものは何なのか?

人がモノを忘れることだってある。
年をとると、なお。
記憶の喪失と、命の喪失。
どちらが…まだよいのか。

両者は他人に対して、傷を残す。
自分を記憶することは認識することでもあるし
記憶がなくなることは繋がりがなくなることでもある。
仮に一方的であっても…むしろ一方的であるからこそ
それは非常に深い悲しみを与える。

…それは命の喪失とどのような違いが?
生きてこそ浮かぶ瀬もある
この場合は適当でない気がする。

生きていて救われるのは周りの人。
どのような形であれ、生きて欲しいと。
其処には記憶が残っているから?

何を言っても僕も「生かす」道を取るだろう。
どのような状況にいても。

自分に当てはめたとき、どちらを望むのか。
それはわからないけど。

もしかしたら、記憶をよみがえらせるきっかけを残したいのでは?
もの扱いする気はないですよ?念のため。

人は時間に救われ、笑えるようにもなる。
万人がそうだとは言わない。
できればそうであってほしいとも、願うが。

そのとき感じるのは罪悪感であるのか…。
自己の嫌悪であるのか。

笑えることは忘れられることなのか。

むしろ受け止められること?
その上で――

思い出したくないこと、いやなこと。
いくつもの記憶。
その中でつらいことは…忘れたほうがいいのか、
それとも、許容できるまであがくほうがよいのか?


 < 過去  INDEX  未来 >


PITZ [MAIL]

My追加