| 2001年07月03日(火) |
なんか…輪廻してるような… |
慣れるということ。 同じ風景(モノ)が違って見えるようになる。 例えば家。 入居当時と住み慣れてから。 まったく違う。 方向感覚の問題や家具の問題もあるだろうけどそれ以上に。 住んでいる場所に限らず店、友人の家。
慣れる。また、近い人間にも言えるのではないか。 人についてではなく、その人の作り出したモノ。
例えば料理、絵、音楽、詩、物語…。
商品という概念。 多くのイメージとして商品=しっかりしたもの …と、いうより、 「自分のものとは違うもの」としてのイメージ。
最近アルバイトの話をよく書くが… 例えばハンバーグ。 俺が肉を焼く。肉をこねる。盛り付ける。
お客に出すとき。 確かに僕がすごく下手ということもあるだろう。 でも、それ以上に客として食べたときのような 商品(自分のものとは違う)という イメージはない。
それでも多分客には商品として見えているだろう。 少しは高級そうに。
上記のいくつか(料理や絵や)は 自分に近い(例えば親類だったり友だったり) ことで、部外者のもつイメージと違う、 もう少しいうとイメージの先にあるものまで 「見えて」しまうのではないか。
えてして、知っている人間のモノ(それは人間性とかも含むが)は、 過小評価してしまうのではないかと思う。 評価される人自身も自分を過小評価しているのではないか。
それは自信、に由来するところもあるだろう。 だが、そうではなくて… 自身のモノだからこそ、見えなくていい部分(気づかないところ) にまで気が付いてしまうのではないかと。 その人に近い人もね。
本来、作品(自身の人間性などを含む)とは 「全体」でみるのも。 「細部」と「全体」には大きな違いがあり、 一つ一つの「細部」が完成品である必要はなく、 むしろ、完成品であることは作品自体いいとはいえない。
細部と全体ではそれぞれの役割が違うのだから。
「細部」に不安定な部分(悪い意味ではなく)があり それを含んだ上で全体を表現する。 それは時には動きを表現したりするときにも使われる。 そして不安定な部分は作品に生を与える。
完璧な人はいないし風景もない。音もなければ味もない。 細部。そこが見えてしまうということ。 それに気づかなければそれ以上のスキルアップは望めない。 が、それにこだわりすぎても自分をつぶすだけだ。
…結局何の解決にもなってないし。 なんか問題の提起がずれていってしまったような…。
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