想
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2003年06月13日(金) |
火付けシリーズ・1 「タバコ」 |
もちろん僕にはわかっていた、今ここで火をつければどうなるか。
僕の目の前には、同僚の山本に差し出された1本のマイルドセブンがある。初めに僕の禁煙の邪魔をしたのも、この山本だった。4年前、ちょっと買いたいものがあって、毎日の500円から750円程度の大きな出費に気づいた僕は、8年間吸い続けたタバコをやめようと決心した。無意識に右手がポケットを探ることもなくなってきた頃、山本は僕の前に現れた。僕の禁煙生活は、山本の登場によって幕を迎えた。
山本はそのとき、僕が勤めている小さな印刷会社で働き始めたばかりだった。そこそこ大手の商社からの転職だったが、年が近かったせいか妙に話も合い、会社帰りには2人で飲みに行くようになったりした。飲み屋に通うようになってからしばらくして、転職の理由を聞いたことがある。山本は笑いながらこんなことを言った。 「元の職場はなんだか知らねぇけどタバコ嫌いが多くてさぁ、ほら、俺はこの通りだし、ウチの課は外回りも少ないトコだったから、なんてゆーの?居場所がないってゆーか。だから、さすがに悩んだけどさ、仕事にも大分飽きてきたし、思い切ってやめちゃった」 この通り、というのは、山本のタバコ好きのことである。こいつは本当にタバコが好きで、タバコの煙で生きているんじゃないかと思うほど、いつも辺りに煙を漂わせている。自己紹介のときにも、「好きなものはタバコです、こだわりの銘柄は特にありません」とか言っていたのを覚えている。僕は基本的にマイルドセブンしか吸っていなかったのだが、その自己紹介を聞いて、あまりいい気はしなかった。 山本がやってきた頃には、僕が煙から離れて3週間以上が経っていたが、その間なんとか無事に禁煙できたのも、周りにタバコを吸う人間がいなかったからだと僕は思っていた。駅のホームでも、喫煙所は意識的に避けて通るようにしていた。他人がタバコを吸っているのを見てしまうと、どうも落ち着かなくなるからだ。そんなところに、タバコがあれば生きていけると言わんばかりの男がやってきた。これはマズい・・・。 人前で堂々と「タバコが好き」というだけあって、山本は、本当に美味そうにタバコを吸う。仕事をしていても、駅にいても、実に自然にタバコとライターを取り出し、慣れた仕草で火をつけ、吸い始めには軽く目を閉じて深々と美味そうに吸う。初めて2人で飲み屋に行ったときもそうだった。山本はそのとき偶然マイルドセブンを持っていて、大きく煙を吐き出すと、隣に座っていた僕の方を向いて言った。 「何見とれてんですか。俺、そんなにイイ男?」 やめてくれよ、あんまり美味そうに吸うもんだから思わずね、と僕が答えると、よく言われます、と山本は答えた。 「田村サンは吸わないの? 田村サンだって吸う人でしょ」 確かにマイルドセブンを8年吸ってたけどね、これでももう3週間禁煙してるんだよと笑って告げると、山本は微妙な表情になった。 「無理にとは言わないけど、一本だけ、どう?」 禁煙してると断ったそばから勧めるなんてひどいな、と言って、僕はすぐに遠慮し、その場では山本ももう僕にタバコを勧めることはなく、ひととおり職場の話やバイトの女の子の話で盛り上がってから家に帰った。帰り道でも、タバコを吸いたいと思うことはなかった。すっかり禁煙生活が板についたな、などと自分でも感心しながらその日はあっという間に眠りについた。 ところがその次の日の朝、会社に向かう途中の道で、気がつくと僕は自動販売機の前でマイルドセブンを手にしていた。無意識に、小銭を出し、ボタンを押し、取り出し口からタバコを取り、そこで自分のしていることにようやく気づいた。いや、正確に言うと、無意識だったのはタバコを買うという行為についてではなく、自分が禁煙中であるということに対してだった。毎日タバコを吸っていたときのように、何の考えもなくマイルドセブンを買っていた。前の晩、自分自身に感心したことを思い出し、僕は一人で恥ずかしいような気持ちになった。買ってしまったタバコを手に、どうしようかと迷ったが捨てる気にもなれず、しかしここで吸ってはひと月近い禁煙生活が無駄になってしまう、と、そこまで考えて、自分がライターを持っていないことに思い当たった。同時に、昨夜の飲み屋での山本の顔が浮かんだ。そうだ、山本だ。タバコならあいつにやってしまえばいい。 会社に着くと、山本は僕の隣の席で、当たり前の顔をしてタバコを吸っていた。僕は早速、例のマイルドセブンを差し出して、気づいたら買っちゃってたんだ、よかったら代わりに吸ってやってくれないかな、と山本に言った。 「おっ、いいの? サンキュー! ちょうど切れるトコだったんだ。あ、でも、タダでもらうのも悪いから、コーヒーかなんかおごるよ」 そんなの気にしなくていいのに、と僕は言ったが、山本は社内の自販でコーヒーを買ってきて僕にくれた。その晩はまっすぐ家に帰り、缶ビールを飲んで寝た。 その次の日の朝、今度は駅の売店で、またもや僕はタバコを買ってしまった。あろうことか、そのまた次の日も、同じことが繰り返された。僕はタバコを手にするたびに会社で山本を探し、山本はいつもコーヒーを僕におごった。4回目に、とうとう山本が、今晩飲みに行かないかと僕を誘った。もちろん僕は断らなかった。 飲み屋に入ると、山本はホープの小さい箱を取り出して、火をつけた。紺色の箱に書かれたアルファベットを見て、希望、と僕はぼんやりと思った。 「どうしちゃったの、田村サン。なんか僕に言いたいことでもあるんじゃないの?」 毎朝、頼んだわけでもないのに同僚からタバコを渡されたら、いくらタバコが好きでも不審に思うだろう。そうして、タバコ好きの男がひとり、僕の目の前で本当に不審そうな顔をしている。申し訳ない気持ちで、僕は自分の状況を山本に説明した。別に何かあるわけじゃない、毎朝言うように、本当に無意識にタバコを買ってしまうんだ、迷惑だったらタバコを渡すのはやめる、悪かった、と。山本は煙を吐きながら、タバコを吸っているときにしては珍しく、困ったような微妙な顔をしていた。この間の顔だ、と僕は思った。僕が、禁煙していると言ったときの、あの顔だ。 「俺が口出すようなことじゃないけどさ、田村サン、やめた方がいいよ」 だから、タバコはもう1ヶ月以上やめてるよ、そう言い終わらないうちに山本が僕の言葉を遮って言った。 「違うんだよ、タバコじゃなくて、タバコをやめようとするのをやめた方がいいって言いたいんだ俺は」 山本の言うことを理解するのに時間はかからなかったが、なんだ、結局タバコを勧めてるだけじゃないか、僕はタバコをやめると決めたんだから、とちょっとむきになって言い返した。タバコなんて、体に悪くて、しかも金がかかって、いいことないじゃないか。 「それは確かにそうなんだ。俺だって知ってるよ。喫煙はあなたの健康を損なうおそれがあります、ってさ。でも、世の中には、タバコを吸うことが自然な人間もいるんだ。ちょうど俺みたいに、タバコを吸うために生まれてきたような人間もいるし、そうじゃなくても、自分のカラダにタバコが合うって知ってる人たちは、たくさんいる」 妙に熱っぽく山本は続ける。山本の人差し指と中指の間で、ホープが一筋の煙に変わっていく。 「タバコは悪いものだって周りから言われ続けてきて、自分がタバコを吸ってしまうことに嫌悪感を覚える人も、中には、いる。タバコを吸うことそれ自体じゃなくて、自分のしてる行為と周囲の求める行為が噛み合わないのが、そういう人にとって何よりのストレスになってるんだ。そういうケースでは、タバコをやめた方がその人にとってはラクかもしれない。やめられるもんならね。だけど、田村サン」 新しいホープに火をつけて、煙越しに山本が僕を見た。 「田村サンみたいな人は、タバコの味を知っちゃった以上、そう簡単にやめらんないよ。この前も言ったかもしれないけど、田村サンは『吸う人』だ。どうしてもやめなきゃならない理由もないのに、無理してやめようとしても、余計ストレスが溜まるだけだよ。そっちの方が、タバコよりよっぽどカラダに悪い」 山本の目があまりにも真剣だったので、僕はなんと言っていいのかわからなかった。少し考えて、僕は言った。そんなに無理してるつもりはないよ、確かにどうしてもってわけじゃないし、このまま行けばやめられる日も近いさ。 「本当にわかってないの?田村サン。ここのところ毎日、田村サンが僕にタバコを渡すことの意味が。無意識に買ってる、それはもう、カラダが必要としてるっていうサインなんだよ。この1ヶ月、田村サンは気づいてないふりをしてきたけど、本当は、田村サンには必要なんだ。タバコが」 僕はなんだか聞いていられなくなって、悪いけど帰るよ、と言って店を出た。きっと山本はあの苦いような微妙な顔をして、タバコを吸い続けてるんだろうと思いながら、足を速めた。 家について、布団に入ってみたものの、しばらく眠れなかった。閉じたカーテンの隙間から、月がちらりと見えた。 何度か寝返りを打って、ようやく決心して起き上がると、机の引き出しの奥からマイルドセブンとライターを取り出した。山本に出会う前、禁煙を始めて3日目に、気づいたら買ってしまっていたマイルドセブンだった。山本にこの何日か手渡していたのとはどこか違うもののように感じながら、封を切って、一本取り出した。口に咥える。100円ライターがいい音を立てる。火をつけて、そのまま深く息を吸い込む。体が、感激の小さな悲鳴を上げ、僕はその感覚を抑えるように、軽く目を閉じた。 実にひと月ぶりのタバコだというのに、何もかもが自然に感じられた。これまで、自分がこんなにも自然にタバコを吸っていたとは思ってもみなかった。1本のマイルドセブンが、まるで山本の仕草かと思われるほどぴったりと、僕の指の間に収まっていた。僕はその1本を吸い終わるまで、胸の中の笑い出したいような気持ちにほんの少し戸惑い、それと同じくらい、不思議な安堵感を感じていた。煙の向こうに、山本の真剣な瞳が見えた気がした。 次の日から、山本の隣の席で、僕は山本と同じくらい美味そうにタバコを吸った。 こうして、4年前の僕の禁煙の決意は、2万円ほどの節約の末に終わりを迎えた。もう2度とタバコをやめることもないだろうと、そのとき思った。 ところが、いま僕は2度目の禁煙に挑戦しようとしている。僕が一目惚れして、先月やっと付き合い始めた彼女が、昨日の別れ際、僕に言ったのだ。あたし、本当はあんまりタバコが好きじゃないの。 もし今このマイルドセブンに火をつければ、僕はもうタバコをやめることができないだろう。それは、今の僕にはもうわかりきっていることだ。タバコ嫌いの彼女はそんな僕を許してくれるだろうか、もしもタバコが原因で彼女に嫌われることがあったら僕はどうしたらいいのだろう、これはどうしてもやめなきゃいけない状況に入るだろうか、そんなことをぐるぐると考えながら、僕の右手はポケットのライターを握っている。
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