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2003年05月13日(火)  風呂場のフィクション・3 「音が降る部屋」

 ここは、音が降ってくる部屋だ。形になって。

 うちは5階建てのマンションの3階なのだが、どうやら降ってきているのはすぐ上の階の音らしい。椅子を引きずる毎日の音から始まって、ピアノを弾く音、目覚ましの音、時々は、何かが落ちた音や、怒鳴りあう男女の声、などなど。

 形になって落ちてくるというのは、比喩じゃない。誇張でもない。音が、文字になって突然目の前に落ちてくるのだ。まるで週刊誌の少年漫画だ。目覚ましだったら「ジリリリリ」。しかも、すぐに止まればジリリリリ、で済むが、上の階の住人がしばらく起きなければ、ジリリリリリリリリリリリリリリ、だ。(念のために断っておくが、落ちてくる音の大半は、カタカナだ。楽器の音なんかで、音符が落ちてくることもある。)

 音は場所を選ばず落ちてくる。ただ、目覚ましの音が毎朝必ずうちの流し台に落ちてくるところを見ると、どうやら上の階の音源からまっすぐにうちに落下してくるようだ。そう考えると、上の階の部屋の様子が大体わかってしまい、プライバシーを侵害しているようで少々申し訳ない気にもなってくる。

 音には、それぞれに固有の色がついている。はじめは音源の素材によって色が違うのだと思っていたが、そうではないこともある。予想通りというか、人の声なんかでは、その時々でずいぶん色が違う。
 それから、音には大きさがある。今のところは、大きな音でも手の平に乗るくらい、小さいのはやっと文字に見えるくらいだ。

 落ちてくる瞬間を見たいと思って、たまに独り静かに天井を眺めることもある。そうしていると、音は落ちては来ない。天井から、文字通り「音も立てずに」(天井を突き破る音は見たことがないから、)スーッと突き抜けて落ちてくるのだろうが、いまだに、天井から音がはみ出している瞬間は見たことがない。だから、音が溢れそうで困るときには、天井を見つめることにしている。落ち続けていた音は、叱られた子どものようにすぐに静かになる。もちろん、依然として耳には音が届くが、目の前に積み重なっている音は徐々に減っていく。

 音は、しばらくすると消えてしまう。正確に計ったことはないが、大きいものでも3分あればきれいさっぱりなくなってしまうだろう。まるで、何もなかったかのように。音がそこにあったこと自体が、完全な嘘のように。
 もちろん、そうでなければ困る。朝になって目が覚めた時、落ちてきた音の下に埋もれている自分なんて、想像するだけでなんだか哀しくなってしまう。第一、「ガラガラガラ」とか、「ガチャン」とかに押し潰されるなんて、コントに勝る間抜けな姿だ。ピアノから出るらしいきれいな音符の下だって、潰されるかもしれないと思うとあまり嬉しくはない。

 そんな生活を続けてもう3年。音が降ってくること以外は、平穏な日々が続いている。
 ただ、僕は一度も、その部屋に出入りする人の姿を見かけたことがない。

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今日のは、厳密には「枕もとのフィクション」。


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