想
目次|過去|未来
2001年07月31日(火) |
幸せと管理された言葉の関係 |
それなりに幸せなのだ。 中途半端に満たされているのだ。 だから、溢れるようには言葉が出てこない。
そこで、妙に満たされているこの状況を憂うことにした。
そう。言葉がそれこそ溢れるように、流れるように出てくるときというのは、何かに感じ入っていたり憤っていたりするときなのだ。自分の内面をいつも通りにコントロールすることが、難しいとき。だから、だらだらと消費されていく時の中では、「まともに」何かを想うことができない。ラクといえばラクだけど、そんな自分はちょっともったいない、気がするような。しないような。 穏やかすぎる流れの中では、何かが足りないと感じている。まぁ、物足りなさに気付ける自分が居るうちはまだまだ若いぞ、くらいに・・・。 何が自分にとっての幸せなのか、最近やっとわかりはじめているのかもしれない。幸せなんていうのはいつでも個人的で、だからこそその辺には転がっていないと信じたい。簡単に手に入る幸せはいらないなんて強気な発言ができるほど若くはないが、あっけなく転がり込んできた「幸せ」がやはり「それなり」でしかないことには、4週間で気付いてしまった。気付かずにいられたら、当社比1.5倍くらいの幸せを味わえただろうに。それでも、この状況はどう見ても幸せの枠からはみ出さないところにある。だからこそ捨てられない。捨てられなくて困ってしまう、とか思っているが、本当に困っているのかどうかさえ怪しいものだ。 と、いうわけで。多分、今取り出されてくる言葉はみんな管理されていて、みんなどことなく幸せの雰囲気を漂わせているのではないだろうか。
なんて贅沢な文章・・・。
|