英語通訳の極道
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2003年03月07日(金) 「おずれ」と「緒ずれ」と敬語の「お」


ほとんどの日本人英語翻訳者にとっては、英日翻訳より日英翻訳のほうがはるかに難しい。

その理由として、英語での表現能力が限られるという事情だけではなく、日本語特有の微妙な表現をどう英語に移し替えるか、という課題もある。

たまたま、ノーベル賞作家川端康成の「山の音」を読んでいて、この後者の問題を痛切に感じた。

川端作品の多くは、第一級の日本文学研究者であるサイデンステッカー氏によって英語に翻訳されており、日本人以外の多くの人は、原文の日本語ではなくサイデンステッカー訳を読んでいるはずだ。

彼の英語訳こそが世界における川端文学であり、それによって川端康成はノーベル賞を受賞したとも言える。

さて、その「山の音」の英語訳の一部を検討してみよう。

*    *    *
「山の音」
川端康成 著

「加代がね、帰る二三日前だったかな。わたしが散歩に出る時、下駄をはこうとして、水虫かなと言うとね、加代が、おずれでございますね、と言ったもんだから、いいことを言うと、わたしはえらく感心したんだよ。その前の散歩の時の鼻緒ずれだがね、鼻緒ずれずれ敬語のおをつけて、おずれと言った。気がきいて聞こえて、感心したんだよ。ところが、今気がついてみると、緒ずれと言ったんだね。敬語のおじゃなくて、鼻緒のおなんだね。なにも感心することはありゃしない。加代のアクセントが変なんだ。アクセントにだまされたんだ。今ふっとそれに気がついた。」と信吾は話して、
「敬語のほうのおずれを言ってみてくれないか。」
おずれ
緒ずれのほうは?」
おずれ
「そう。やっぱりわたしの考えているのが正しい。加代のアクセントが間違っている。」

(太字はコラムニストによる)

*    *    *

この文章を英訳するにあたっては、二つの点で苦労する。

第一に、「おずれ」という単語には、二つの同音異義語の解釈が可能だということ。どちらも擦り傷を意味するが、敬語「お」がついた「おずれ」と、鼻緒を意味する「緒ずれ」の二通り。

第二に、敬語の「お」が持つ響きをどう表現するか。

ここで、サイデンステッカー氏の英訳を見てみよう。

*    *    *

The Sound of the Mountain
Translated by Edward G. Seidensticker


“That Kayo – I think it must have been two or three days before she quit. When I went out for a walk I had a blister on my foot, and I said I thought I had picked up ringworm. ‘Footsore,’ she said, I liked that. It had a gentle, old-fashioned ring to it. I liked it very much. But now that I think about it I’m sure she said I had a boot sore. There was something wrong with the way she said it. Say ‘footsore.’”
Footsore.”
“And now say ‘boot sore.’”
Boot sore.”
“I thought so. Her accent was wrong.”

(太字はコラムニストによる)

*    *    *

サイデンステッカー訳では、「おずれ」と「緒ずれ」を“footsore”と“boot sore”という二つの単語で韻を踏ませ、上手く表現している。

しかし、敬語の「お」が醸し出す古風で上品な言葉選びのセンスは、どこにも見当たらない。これでは何故信吾が感心したのか、加代の気がきいていると思ったのか、まったく理解できない。こういう微妙な味わいこそ、川端康成の真骨頂だと思うのだが、さすがにここまで英訳に盛り込むのは至難の業なのだろう。

また細かいことだが、「水虫」を“ringworm”と訳している。“Ringworm”は、足にできる水虫というより「田虫」「白癬」を指すので、言葉から受けるイメージが微妙に違う。

さらに、あまりケチをつける気はないが、“boot sore”(ブーツによる靴擦れ)から連想するイメージは、下駄の鼻緒による擦り傷とは多少ずれているのでは。

ちなみに、サイデンステッカー氏は、信吾が(靴ではなく)下駄を履いていたという事実には、まったく触れていない。多分、“foot”と“boot”で原文の韻を伝えるとまず決め、それに則って、下駄という事実を削除し、表現が難しい敬語の部分を省略したのだろう。

さて、サイデンステッカー氏の名訳について、畏れ多くもいくつかの指摘をしたわけだが、


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