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ボランティア。 昔は嫌いでした。ボランティアと称するものをやっている人達が嫌いでした。 「私はやってるのよっ」と自慢げにしている人達が嫌いでした。今もそういったスタイル重視の人達は好きではありませんが。 ただ、7年前から実際に自分が骨髄バンクのボランティアを始めてからは考え方が少し変わりました。
そんな気持ちの中で他人の文章を読ませて頂くからなのでしょうが、ボランティアに関しての考え方で「ん?」と思ってしまうものがあります。 それも、これは俺の偏った文章読みなのかもしれませんが、しっかりと自分の意見を持ち、社会に対して独特の持論を(それもなるほどと唸る)表明している方にその考え方をされる傾向が多いように感じたのですが、それは、 ボランティアは誰にも気付かれず、そっとやるもの。誰かの賞賛を得ることなくやるものをいう。という意見。 この意見に間違いはないし、俺もその通りだと思います。 俺自身も中学生の時、新聞委員として学級新聞作りをやっていた放課後、もう教室には誰も居ない状況で教室内の机とイスをきちんと並べて帰っていたことがあります。 なぜやったのか、なぜやれたのか。周りに誰も居ないから。 「オマエいいことやってるな」とか「なに点数稼ぎやってんだよ」とか、そんな外野の雑音に惑わされずに自分ひとりで、縦横ビシッと揃った机とイスを作ることが出来たから。縦横揃っていると自分が気持ちいいから、たぶんそれは他人も気持ちいいのではと思ったからやったのです。 しかし、この行為を影から見ている先生が居た。その先生は全校集会で俺の机イス並べを「善行」として紹介してしまった。 俺のその時の気持ちは、見られていたことへの恥ずかしさと、見られてしまったことへの後悔。誰にも見付からずにやることをめざしていたのに、見られてしまったことへの悔しさでした。 だから、誰にも気付かれず、そっと賞賛も得ずにやるものがボランティアという考え方には同感です。基本はそこに根ざしてこそのボランティアだと思います。 ただ、それはひとり一人の人間がいつでもどこでも抱いているべき気持ちで、ボランティア考とはちょっと違うと思うのです。
日本にもたくさんのボランティア団体があります。 街頭でチラシを配布したり、シンポジウムを開いたり、マスメディアを使って普及啓発をしたり、行政に対して意見をしたり、その活動は多岐に渡り当然それはみんなの前に出て、気付かれずにではなく大いに気付いてもらって、そっとではなく堂々としたボランティア活動です。 これはボランティアではないのでしょうか? この行動によって、弱いとされる人や虐げられている人が前進するきっかけを提供したり、大げさに言えば希望を提供できたりもする行為です。これをボランティアと言ってはいけないのでしょうか? 時にはその行動が賞賛されることもあります。それが活動をする上での活力になったりもします。賞賛されてしまえばそれはボランティアではないのでしょうか?
日本人にはボランティアを「恥ずかしいこと」と考える人がたくさん居ます。この恥ずかしいは「照れ」の意ですが、その奥ゆかしさが日本人の美徳だと考える人もたくさんいます。 でも、だから日本にボランティア精神が根付かないのもまた事実です。 自分以外の人間の為に何かをやることは恥ずかしいこと、それは誰も見ていないところでやるならとても崇高な行為で、見てもらってやることは美徳に反するなどと考えていたら日本にボランティア精神など根付きませんよ。 この地球に生まれたからには、永くても100年という時を同じく生かされている人たちが、自分だけじゃなくみんなで豊かに暮らすためにはどうするのがいい?と考え、誰が居ようが居まいが、見てようが見てまいがお互いに支えあうことを考え、時には支え、時には支えてもらい生きる。これだと思うのですがね。
俺自身、自分の骨髄液を提供し周りから賛辞を言われた時には、違うそうじゃないこれは俺が自分にできることだからやったまでで誉めてもらうこととは違うと考えたし、いまもその気持ちに変わりはありませんが、相手の患者さんからお礼の手紙を頂いた時には素直に嬉しかったです。 その気持ちを本にボランティア活動を始めたわけですが、自分にやれることをやっているという気持ちに違いも変わりもありません。 ボランティアってそういうものだと思うし、そっと誰にも気付かれずにやることだけがボランティアではないと俺は思うのです。
独特の持論を建設的に表明する人には敵も多いものですが、その比ではなく指示する人、というより自分で考えるのが面倒くさいからそういった理路整然と示された意見を苦せずして自分に取り込む人がたくさん居るのではないかと俺は考えます。 だから、そんなきちんとした方にボランティアとはこうだ!と書かれてしまうと影響力大なだけに俺としては気になってしまうのです。俺ごときが気にしても無駄よと言われてしまいそうですが。
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