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2003年12月17日(水) いちじく忌

 今日は母の命日。
 息を引き取ったのは、今日から明日になろうとしている夜中でした。
 あれから12年経ちました。

 もっと生きられただろうなぁと今も思う。
 55歳だもの。
 でも、肺血栓塞栓症という病気でしたから「もっと」にも限りはあるけれど。
 完治には心肺同時移植しか手はなく、当時の日本では脳死が認められてはいなかったので、手術は海外でなければ受けられなかった。
 高額な医療費。他人の臓器の移植。肺移植の成功率5%。
 動くことができなかった。
 ならばと、1日でも長く、苦しまずに、有意義に過ごそうと母は母なりに、俺は俺なりに頑張った。

 亡くなる1週間前に、呼吸の状態が良くなかったので急患で大学病院へ行った。
 主治医に診察してもらい、時節柄風邪だろうとの診断だった。
 保温と加湿をして様子をみていた。寝ている分には母も元気だった。
 そして亡くなる3日前。とうとうおしっこが出なくなり、急いで病院へ行った。
 胸部レントゲンを撮ると、そこには通常の2倍に肥大した心臓が写っていた。
 そのまま入院。けれど大学病院には空きベッドがないので、それまでもそうしていたように、他市にある大学病院が提携する病院へ救急車で搬送。
 その夜は、母は苦しさのため、俺は心配のため眠れなかった。
 明けた翌日の早い時間、俺はそちらの病院での主治医に呼ばれ、「覚悟してくれ」と言われた。
 レントゲンに写ったあまりに大きくなった心臓を見たとき、覚悟はしていた。けれど、奇跡も願った。
 その夜は母の呼吸の状態が良く、母はゆっくり眠り、俺もその脇で眠ることができた。このままの状態なら肥大した心臓も元に戻ると思った。
 しかし、翌日の朝、背中が痛いからさすってほしいと言われ暫くさすったけれど痛みは去らず、「この痛みは我慢できないから先生を呼んで」と、とことん我慢強い母が言った。
 先生の指示で母は個室に移され、救急の処置が施された。俺は部屋の外に出された。
 処置が終わり俺が部屋に入ると、母は口から泡を吹いていた。
 痛みをとるためにモルヒネを使ったのだ。家族である、俺の許可も得ずに。
 心臓がパンク寸前でモルヒネを投与すれば、もはや回復など望めない。時限爆弾のスイッチが入った。
 母はそれから意識がなく、俺との最後の会話は、「この痛みは我慢できないから先生を呼んで」だった。
 時間の経過とともに母の呼吸は浅くなり、そして遠くなっていった。
 1分間の呼吸が5回くらいになった頃、看護婦さんが来て人工呼吸を始めた。が、器具をきちんと装着できず、母は苦しみ、そして呼吸が止まった。
 主治医はいなかった。当直の医者は一度病室には来たが、整形外科と門外漢のため何もせず戻って行った。
 俺は母の体の上に馬乗りになり、必死で人工呼吸をやった。せめて、主治医が来るまでは生きて、そして奇跡が起こると信じたかった。
 俺が人工呼吸を始めてから30分後に主治医は来た。
 俺をベッドから下ろし、心音、呼吸、瞳孔を調べ、ご臨終ですと告げた。
 実際に呼吸が止まってから30分後が死亡時刻となった。

 死者にムチを打つようなことを俺はやってしまったのかもしれない。
 けれど、生きていてほしかった。
 人工呼吸をやろうがやるまいが、主治医が到着して死亡時刻が確定するなら、俺はただじっとしていることはできなかった。

 今でもその時の光景は鮮明に覚えていて、忘れることはなくて、なぜ1週間前の変調時にもっと的確な処置ができなかったのだろうと後悔し、自分が傍にいながらやり残したことがあまりに多すぎると悔しくなる。





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