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2003年10月11日(土) |
過去がなけりゃ未来はない |
エンピツ作家さんの日記より。
>将来、「私は誰なのか」が自分でちゃんと理解でき、自分の居場所ができたら、それが私の「ふるさと」だ。私のこれまでの30年の人生は「自分の居場所を作る」ためにあったといっても過言ではない。きっとこれからもそうだろう。私のふるさとは未来にしかないのだ。
本来なら引用の許可が必要なのかもしれないけど、今回は無断借用で。
この文章の作者は、懐古趣味は皆無なのだという。 中学校、高校の同窓会に全く興味はなく、幼少の頃に流行った歌なども、懐かしいとは思うが当時に思いを馳せることはないという。 現在が全てであり、昔は良かったなどと思い懐かしむことは愚の骨頂と考えているらしい。
作者は幼少の頃、劣等感と孤独感と絶望感に苛まれていて、だから勉強と部活とピアノに全精力を傾けていたのだという。 よくあるパターンである。 俺もそうだった。いや。俺は部活と部活と部活だったけど。笑
さて。 俺はこの作者の考えには反対である。 作者はこうも言う。 最近やっと自分は仕事が出来ると客観的に思え、それは周りも評価してくれ、だから自分を肯定でき自信も持てるようになった。と。 この事実はとても大きく、こう思えることは大事で、ここまで自分を持っていくことが出来た作者は掛け値なしに偉いと俺は思う。よくやった!と言ってあげたい。 でもね、それは自分だけが偉いんじゃないのよ。 思い出したくもない過去かもしれないけど、その時代があったから今の自分があることを、常に気持ちのどこかに持っていないと足元は簡単に掬われるのです。 「いま、ここ」の自分を冷静に見ることと、思い上がることは完全に別物。 過去を封印しての今なんて、あるわきゃねーだろーが。 人間はけっしてひとりで生きてはいません。生きてもいけません。 もちろん、そんな浅い考えで作者はこの文章を書いてはいないと思う。思うけれど、自分ひとりで突っ走り頑張ることが美徳だと思い込んでいる節があることは否めない。 だから、俺はこの作者の言っていることには反対だ。
ある程度生きていれば、触れたくも触れられたくもない過去なんて誰でもある。 だからって、未来にしかふるさとはないなんて自虐的な思想はよした方がいい。 なぜなら、その思想は、自分の居場所を探し必死に生きるこの今を、未来に完全否定することでしかないのだから。 そして、その思想に安息の地はないのだから。未来永劫。
と、他人の文章にイチャモンをつけてみました。 でもだからって、マイ登録を削除したりはしませんよ。 そんな考えの人がいるんだなって気付かせてもらえたし、だから(ん〜俺はどう考えてる?)と自問する機会を与えてもらったんだから。
何があったのかというと、車が脱輪して何とか自力で復帰させようと車を持ち上げたのでした。 でも、駄目でした。 入会12年。3度目のJAF出動を依頼しました。
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