西部劇に出てくるような町に居た。 遠くの方にはビル等も見えるので、数百年前にタイムスリップしてしまった、という訳ではなさそうだ。町の特色というか。 地面には、雑草がところどころに生えている。 俺は交差点のような場所に立っていた。 定期的に馬車が通り過ぎていく。 その馬車は、荷車を引いているのが馬ではない。 全長3〜5メートルほどの、黒い馬の体を持った生き物だ。 頭だけが、白い虎になっている。 実際、こんな生き物を目の当たりにしたら、奇妙な違和感を感じてしまうんだろうが、CGなどで再現されたような不自然さを感じさせない姿に見えた。 そういう技術が精巧になってくると、どうしても想像力が、人工的に加工されたようなものを思い浮かべるようになってしまうのだろうか。 どういう形が一番綺麗に見えるのか、を追求したような姿なので、神話的とも言えるのか。 虎頭の生物が襲ってくるような事はなさそうだった。 その馬車はたくさんの果物を積んでいて、カラフルだった。 同じものが定期的に1台ずつ通り過ぎて行くのだ。 逢魔が刻というやつなのか、空が紅紫に染まっていて幻想的な感じだった。 次に、別の夢に移った。 寝る前にニコルの事を浮かべていた事もあるのか、夢の中にそのキャラが出てきた。夢の中に居る時は、「喜びにしてはいけない」という意識がなくて、その姿を目にするだけで信じられないような喜びを感じる事が出来た。 今日は午前7時頃に目が覚めた。
数百年前の西洋を題材にしたような物語には、同性愛的な要素が含まれている事が何故だか多い。 子供の頃から本を読む事は多かったので、俺はそれらを同性愛とは受け取らず、男が男に対して慈しみを持つ事は、アメリカ文化が家族や友人に対してやたらと「愛」という言葉を使っているのと同じくらい、この時代この国では当然のものとされている文化なのだ、と受け取っていた。 俺が今読んでいる「トニオ、天使の歌声」という小説にもそういった同性愛的な要素が多く含まれていると思う。 読みながら、色々な事を考えていた。 自分のような少年を求める嗜好は古い時代から存在していた。 でも、昔はそれらが禁じられる事もなく、異性愛と同じくらい当たり前の情欲として認められまかりとおっていた。 今の時代にもそういった嗜好を持った人間は変わらず多く存在している。 でも、法律はそれを禁じる。 俺は、自分が歳を取っていくごとに少年と関わる権利が薄れていくのだと感じている部分がある。(もっとも、どんな年齢だろうが人間だろうが、そういう意味で少年と関わって良い権利なんて誰にも与えられてはいないと思うけど) どんどん歳を取っていく。 自分は、少年に対して一生特別な関わりを持つ事なく過ごしていく事になるんだろうなと、閉塞的な気分になってしまった。自己中にも。 また、もしも自分が対象にするような少年を得られる機会があったとして。 どこまでいけば、自分は満足するのだろう、と。 付き合う事が出来たところで、その子を得られた事になるのだろうか。 性的な関わりを持ったところで、その子を得られた事になるのだろうか。 結局、その子はその子自身のものであって、いくら俺が求めたところで自分のものにはなり得ないのだ、と。 真に自分のものになったと満足するにはどうすればいいのか、途方もない事のように思えてしまう。 それら全部を含め、苦痛に感じることなど卑怯で腐った甘え以外の何者でもないというのに。最低だな。 俺みたいな人間の欲や都合なんて弾圧されて当然だ。 むしろそうなる事は喜ばしい事じゃなかったのか、と。 結局、どうあっても自分は理想の少年を手に入れる事など出来ないのだ、と。 たまにそれらを息苦しく感じてしまう事あがるのだが、それを辛いと捉える事はいけない事だ。 考えないようにしなければならない。 なんか、最近文章がおかしくなった。 今までも自分の中でどういった文体を使うのか、というのはハッキリ固まっていた訳じゃないけど、小説とかを読んでいると調子が狂うというか影響が出てしまっているように思う。
自己嫌悪で厭になる。
|