ぼんのう
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アンケートによると、リストカットなどの自傷行為に及んだ高校生が半数を超えてどーのこーのという結果が出たそうな。
で、どこぞの“分析医”によると、子供の頃から虐待を受けたのが原因だの、均等化された社会において、自分は不要な存在だと思い込む鬱病が原因だの、言いたい放題ぶっこいているが・・・
我輩から一言申し上げよう。
あまえんな!クソガキ!
てめらは
最初から、社会に不要なんだよ!
どこぞの腐ったヒューマニストの脳味噌なんか、スピロヘータに侵されているのだろうよ。
てめえの代わりなんぞ、いくらでもいるんだよ!
それが事実なんだ。 そう思いたくない、思われたくないのであれば
外へ出ろ!勉強しろ!働け!
それが出来ないなら
死ね!
なんかまたアッチコッチからクレームがきそうな日記になりそうだが、我輩の素直な考えである。正直言って、自分という存在は、社会において世界において、人類において、「必要のないもの」「存在意義のないもの」であると考えよ。全てを否定しろ。自分というものを。自分にあるものを。自分という存在意義そのものを。徹底的に自らを無に落せ。落ちきってもなお、さらに自分を落せ。徹底的に自分を否定しろ。
もう自分というものが不要である、最初から存在しないとわかった瞬間、
強烈な揺り戻しを感じることができる。
それを感じることができないのであれば、それは落ちきっていない証拠である。 更に自分を否定しろ。 それでも落ちきれず、死にたくなれば、死ね。 こう言っても、その人間は実際に死ぬことはできない。 なぜなら自分を否定しきっておらず、自分かわいさの甘えが残っているからだ。 友人知人に 「ああ、死にたいよ」 とかほざいているのであれば、 相手にするな。実際、自分を完全否定していないから、死ぬ勇気もないからだ。 死ぬ真似事をして、自分の存在をアピールしようとしているに過ぎない。 「死にたいよ」 とか言っているのは、自分が少しでも認められたいという甘えにすぎない。 本当に死にたい人間は、誰でにも告げる事無く死ぬ人間だ。 「死にたいよ」とか言っているのは、少しでも注目を浴びたいと思っている、甘ったれた腐った根性だ。
自分が否定され、自分自身をも否定しきったその先にある、本当の自分を見出した時に、強烈な揺れ戻し、強烈な光明が見いだせられる。
「個」の時代と言っているが、実際「個」として生きるのは、「集団」として生きるよりも厳しいものである。 ところが、「個」とは「勝手に生きる」という勘違いがあり、「勝手に生きる」ことができない連中が、ヒキコモリになったり、自傷行為に走ったりする。
いいかげんにしろ。
「個」を生きるとは、「個」を徹底的に深め、「公」に自らの場所を探すことを意味する。「公」から「個」に来る事は決してない。
そして「個」を深めたいのであれば、まず自らの「個」を徹底的に否定しろ。
甘ったれた連中だ。 同情できん。
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