ぼんのう
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2006年02月21日(火) あまえるな!死ね!

アンケートによると、リストカットなどの自傷行為に及んだ高校生が半数を超えてどーのこーのという結果が出たそうな。

で、どこぞの“分析医”によると、子供の頃から虐待を受けたのが原因だの、均等化された社会において、自分は不要な存在だと思い込む鬱病が原因だの、言いたい放題ぶっこいているが・・・


我輩から一言申し上げよう。


あまえんな!クソガキ!


てめらは


最初から、社会に不要なんだよ!


どこぞの腐ったヒューマニストの脳味噌なんか、スピロヘータに侵されているのだろうよ。


てめえの代わりなんぞ、いくらでもいるんだよ!


それが事実なんだ。
そう思いたくない、思われたくないのであれば


外へ出ろ!勉強しろ!働け!


それが出来ないなら


死ね!






なんかまたアッチコッチからクレームがきそうな日記になりそうだが、我輩の素直な考えである。正直言って、自分という存在は、社会において世界において、人類において、「必要のないもの」「存在意義のないもの」であると考えよ。全てを否定しろ。自分というものを。自分にあるものを。自分という存在意義そのものを。徹底的に自らを無に落せ。落ちきってもなお、さらに自分を落せ。徹底的に自分を否定しろ。


もう自分というものが不要である、最初から存在しないとわかった瞬間、

強烈な揺り戻しを感じることができる


それを感じることができないのであれば、それは落ちきっていない証拠である。
更に自分を否定しろ。
それでも落ちきれず、死にたくなれば、死ね。
こう言っても、その人間は実際に死ぬことはできない。
なぜなら自分を否定しきっておらず、自分かわいさの甘えが残っているからだ。
友人知人に
「ああ、死にたいよ」
とかほざいているのであれば、
相手にするな。実際、自分を完全否定していないから、死ぬ勇気もないからだ。
死ぬ真似事をして、自分の存在をアピールしようとしているに過ぎない。
「死にたいよ」
とか言っているのは、自分が少しでも認められたいという甘えにすぎない。
本当に死にたい人間は、誰でにも告げる事無く死ぬ人間だ。
「死にたいよ」とか言っているのは、少しでも注目を浴びたいと思っている、甘ったれた腐った根性だ。


自分が否定され、自分自身をも否定しきったその先にある、本当の自分を見出した時に、強烈な揺れ戻し、強烈な光明が見いだせられる。



「個」の時代と言っているが、実際「個」として生きるのは、「集団」として生きるよりも厳しいものである。
ところが、「個」とは「勝手に生きる」という勘違いがあり、「勝手に生きる」ことができない連中が、ヒキコモリになったり、自傷行為に走ったりする。

いいかげんにしろ。

「個」を生きるとは、「個」を徹底的に深め、「公」に自らの場所を探すことを意味する。「公」から「個」に来る事は決してない。

そして「個」を深めたいのであれば、まず自らの「個」を徹底的に否定しろ。


甘ったれた連中だ。
同情できん。


ANDY 山本 |HomePage

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