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いよいよ「病院のピアノ弾き」初日が来た。幸い好天である。 バスに乗る。運転手のおねえちゃんに降りるバス停を教えてくれるように頼む。地図とにらめっこしながら乗ることしばし。バスは郊外を走っている。多分この辺だ。降りる準備をする、と運転手のおねえちゃんが「次だ」と教えてくれる。まずは上出来。 目指す建物を探す。案内板を頼りに進む。見覚えのあるドアの前に立つ。暗証番号を押してドアを開ける、開け…、開かない。何度かやってみるが開かないのでベルを押して中の人を呼ぶ。暗証番号を一つ見落としていたことが発覚。もう一度やらせてみて、といって開ける、開け…、開かない。今度はダイアルを逆に回していたことが発覚。彼女はこうやって開けるのよ、ともう一度示してさっさと引っ込んでしまった。忙しいのに申し訳ない。 中に入って、教えられた通りにナースステーションに行く。ピアノを弾きに来た、というと「まあ素敵。私、音楽が大好きよ。」とにっこりされる。それだけでうれしい。ピアノのところにいると、この病棟のマネージャだというリズさんが挨拶にやってきた。前回は研修で不在だったのだ。リズさんはこれまたすばらしく美しい、意志を感じさせる女性である。 職員の他にも何人か配膳を手伝ったり話し相手になっている人がいる。年配者だがボランティアらしい。引退して時間と体力に余裕がある人がボランティアとして参加しているようだ。 そのうちの一人に話し掛けられた。小柄なアジア女性で、犬を連れてきている。中国人かと聞かれたので、日本人だと答えるとちょっと意外そうに「Oh!こんにちは」ときれいな発音で言うと、にやりとしてあとは英語だけを話して向こうに行ってしまった。 ピアノはちゃんと調律してあった。ここの患者さんのだんなさんが調律したのだという。バスに乗りながら思い出した曲をいくつか弾いてみる。ここのピアノは優しい音がする。「エーデルワイス」「星に願いを」「きらきら星」「虹の彼方に」…思いつくままに弾いてみる。楽譜がないこともあってすべてハ長調で簡単に弾く。難しいところはパスである。ネタが尽きたので「お馬の親子」などの童謡を弾いていると、職員の女性が一緒に歌い出す。あれ? 「蛍の光」をはじめとする昔の文部省唱歌が、スコットランドやアイルランドの民謡から多く採られたことは知っていたが、「お馬の親子」もそうなのか。それなら、と「蛍の光」も弾いて「これは卒業式に歌う曲で、窓の下で勉強するという意味だ」などと説明するが、ぴんとこないらしい。後で聞いたところによると、これは年越しのときに歌う曲だという。そういえば紅白歌合戦で歌っていた気もする…。 途中でお茶をもらって一服。職員の女性に「とても素敵だわ」と声をかけてもらう。老婦人の一人が「私の夫が調律したピアノはどう?」と話し掛けてきた。「とてもいい」と答えると、満足そうに微笑んだ。なお何か話し掛けてくれたが、聞き取れないのが悲しい。私が再度弾き始めた背後で、彼女が「私の夫があのピアノを調律したのよ」といっているのが聞こえる。 拍手こそないが背後で聴いている気配はする。ゆったりとした気分で丁寧に弾く。途中で楽譜を見つけていろいろ遊んでみる。やはり映画音楽などは反応があるようだ。「お馬の親子」の女性(たぶん歌好き)が口ずさんでいるのが聞こえる。 気をよくしていて弾いていると、外でざわざわと人の声がして、ミニバスの一行が帰ってきた。グレンダさんもいる。迷子を迎えに来てもらったような気分である。グレンダさんは相変わらず忙しそうにしている。少し事務処理をした後、送ってくれるという。グレンダさんは「もうやめてもいいし、もう少し弾きたかったら弾いていてもいいし、あなたが心地よい(comfortable)と感じるほうにしてちょうだい。」という。ここまでで私が弾いていた時間は45分。もうちょっと弾いていてもいかな、という気分である。グレンダさんがあと10分ぐらい雑務にかかるというので、その間弾いておしまいにする。 帰り支度をしていると、「お馬の親子」の女性(間違いなく歌好き)が他にも楽譜がある、と示してくれた。初めての私に気をつかってか、他の職員の人も通りかかる都度話し掛けてくれる。「あなたのピアノはやさしくてとてもいいわ。よく情熱たっぷりに弾く人がいるけどね。」といって笑った。そう、熱演は必要ないのだ。ただ生身の人間がそこに行って心地よい音を出せばいい。そう思えば気が楽である。すっかりさび付いてしまったけれど、ピアノを身につけさせてくれた両親に感謝である。 グレンダさんは今日も患者さん一人一人に話しかけている。 「今日は、犬も来たし、ピアノもあるし、たくさんね!」といっている声がする。なるほど、犬も大事なボランティア要員なのだ。人々の間を歩きまわり、頭をなぜてもらい、クッキーをおねだりする役目がある。グレンダさんがこの前犬を連れて来ていたのもそういうわけである。この国ではどの犬もきちんと躾られていておりこうさんなのだ。 グレンダさんの車で帰る。来週はグレンダさんは休暇なので、代わりに同じボランティアの日本人女性が私を送ってくれるという。今日彼女に会ったか、というので「知らない」と答えると、犬を連れてきていたはずだという。それなら先ほどのアジア人女性がそうなのか。驚いた。彼女の立ち居振舞いはもはや、日本人のものではない。英国人の男性と結婚してもう長いことこちらに住んでいるそうである。 面白いことになってきた。とりあえず「病院のピアノ弾き」の滑り出しは上々である。
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