WELLA
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1997年12月13日(土) 第19話 あなたに幸運を

境内の観光も一通り終わって、さてタクシーに戻ろうという段になって、われわれの心に暗雲が広がり始めていた。
実は、来る時に適当にあしらった物売りの男が待ち構えていると予想されるのである。タクシーを待たせてある車寄せと境内を結ぶ道は一本しかなく、逃れようがない。
その男はハンドベルのような銀色の鐘を売っていた。鳴りものに弱い私はつい立ち止まってしまい、あまつさえ手に取ってみたりした。
その鐘はありがたい経文や仏像などか模様として施してあり、付属のすりこぎのような小さな棒で叩くようになっている。この鐘の鳴らし方はそれだけではない。
その棒で鐘の縁をぐるぐるとなぞっていると、やがてグラスハープのように、ぅわーん、ぅわーんと音を出し始める。音が出たところで、鐘の側面に口を近づけ、あくびをするような要領で口を広げたりすぼめたりすると、そこで共鳴して、ぅわぉわぁ〜ん、ぅわぉわぁ〜んと響いてくる。

これは面白い!

値段を聞いてみると日本円にして3千円だという。高すぎる。
いくらなんでも、露店で売っているこんなチャチな作りのものに3千円も出すのはいかにも馬鹿げている。高すぎるといって断ると「よし!わかった!」とでもいうように日本円、米ドル、ルピーと、次々と違う数字を呈示してくる。が、換算すればどれも同じ値段である。
千円ならば買ってもいい、と言うが、今度は向こうが冗談じゃない、というような顔をする。せいぜい2千円どまりである。話にならないといって歩き出すと、例によって後ろからついて来る。曰く、


これはすごくいい品だ
あなたに幸運をあげたい
なぜならあなたは今日初めての客である
是非ともこれを買ってもらってあなたに幸運をあげたい


午後も夕方近くになって「初めての客」とは恐れ入る。笑止、笑止。そんな馬鹿な、と言うと、いや、今日は朝からずっと雨だった、やっと晴れてきたので店を出したのだという。確かに道理ではある。しかしこれを買って幸運なのは、客ではなく物売りの男の方ではないのか。
わっはっは。せっかくの幸運は二番目の客にあげてちょうだい、といって再び歩きだすと、今回の物売りは手ごわい。大きな声で食い下がって来る。


なぜ買わない!?俺はあんたに幸運をあげたいんだあぁぁ!


これから私達はお寺を見に行くのだから、帰りもここを通る。その時にまだ買う気があったら買ってあげよう、といって境内に向かった。

…というようなやりとりがあったので、断りつつもまぁ買ってもいいかなという気にはなっていた。
ところが、である。
所持金がなかったのである。上の境内で例の眼をデザインした石などを買ってふと気付くと、タクシー代くらいしか残っていなかった。必要な分だけ持って出たつもりだったが、食事をしたり王宮見学などで使ってしまっていたらしい。それで鐘を買ってしまったらホテルに帰れなくなってしまう。

帰路は足取りが重い。物売りがわれわれのことを忘れていることを望みつつ歩いていったが、物売り男はさっきの場所にいる。せめて道の反対側を迂回しようとすると、迂回した先にその男もやってきた。約束通り買ってもらおう!というのである。所持金がないのだというと、そんな事はないだろうルピーがなければドルを出せ、という。いや本当にないのだ、といっても信じてもらえない。それはそうだろう。われわれもまさかそんなに所持金が少ないとは思っていなかったのだから。

大変失礼した、といってタクシーに向かう。男は急にダンピングを始めた。500ルピーでいい、さっき千円なら買うといっただろう、というが買えないものは買えないのである。取り合わずにいると、ますますムキになって値下げしてくる。
300ルピーでどうだ、100ルピー、50ルピー…
今更いくら安くなってもない袖は振れない。タクシーに乗り込んでも、窓の外でまだ値下げをし続けている。10ルピー!10ルピーといえば、20円である。さっきまで2千円だったものが、なぜ20円になるものか…。

タクシーの運ちゃんは、車に追いすがって来る物売りに頓着せず発進させる。初めから欲を出さなければ買ってあげられたものを。なんとなく苦い思いが残る。


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