新宿で「無名の人生」という映画を観る。
斬新で難しいアニメ映画であったが、名前というレッテル化されてるものに最終的には価値はなく、重要なのは経験や体験であり、どう生きたかというプロセスなんだぜ、というテーマな気はした。 自分もずっとそう思っているので異論はない。結果に拘るという前提の基でのプロセスが重要である。結果に拘らないプロセスは、娯楽であり息抜きが目的となるため、基本的にそこから示唆は得られない。 結論のでない過程か結果かの二元論の議論はもう終わりとしたい。 持続可能性があり、示唆も得るには、どちらも必要だ。どちらかだけでは足りない。片方では続かない。仕組みとして成立し続けるためにはどちらも必要なだけだ。 これは、格闘技において必要なのは、スピードか、パワーか、という二元論議論にも似ている。完全にどちらかだけで大丈夫という話はない。本当に勝ちたいならどちらも必要というだけだ。
また、今日は父の日とのことでジェラート・ピケのヨッシーカーディガン寝巻きを家族から頂く。 背中にもヨッシーが入ってるのが可愛い。
そして、夜は娘の二十歳誕生日会とのことで外食。コースだったので量が多く食べ過ぎでお腹が痛い。お腹が痛くなる程食べ過ぎてしまう現代人がSDG'Sとか言ってるのは壮大なコントだ。全く辻褄が合わない。
自分の家は平和で世界は平和だと思っていても、何故か外国では戦争をしていて一向に終わらない。 フィリピンのゴミ山に産み落とされた子供には何の罪もないが、健全な人生を送れるとは言い難い。 辻褄が合わず、不条理が常にあり、それらも含めて世界はできている。カオスである。カオスが前提の世界である。罪もない奴らが冤罪で裁かれ、楽して得してる奴らが持ち上げられ、頑張っている奴らに一向に光を当たらない、という不条理も含めてカオスな世界である。メディアは嘘ばっかりで、古い政党は保身なだけで国民のことを1ミリも考えていない。正論や正しいことがあってもそうならない。どんなことにも抵抗する人達は必ず現れる。 このカオスで、どう生きるか、どう生きたいか。 ただ、どんな生き方をしても、ほとんどの人間は教科書には載らず、結局は無名の人生だ。
家までの帰り道で隣に並んで歩く娘に言う。 「君の好きな様にしたらいい」 そして、エンドロール。 (注釈 どこまでが映画でどこまでが現実かの境は曖昧だがそれは重要なことではない)
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