セルフライナーノーツ。

2001年06月01日(金) 世界で一番みじかい地平線。


けっこうな雨の降りしきるなか、『毛皮のマリー』を観にゆく。
色とりどりの傘に取り巻かれて開幕を待つその場所は、奇しくも以前の日記で書いた、あの”包丁の刺さらなかった”舞台なのであった(笑)。


三輪氏は神であった。
(自分の為に綴られた脚本を自らで演出し、主演するんだからそれも当然だ(笑)。)
舞台を見終わった後では多かれ少なかれ、”役”と”役者”の一致不一致、比較、関係性などを考えるものだけれど、今回ばかりはそれが無かった。
マリーは三輪氏そのものなのであって、巧いとか下手とか評する余地はまったくないのである。
ミッチー王子に関しては、完全に見た目のみで選ばれたな(^-^;、という感があるが、この芝居の場合それが最重要なので別にいいかな(笑)。
ただ、妙に声が掠れていたのが気になった。(美と無垢と封じられた夢の象徴である欣也という少年を演じるには、むしろルックスより声の方が重要な気がするのだけれど。)
蜷川ハムレットで観た(ような気がする)下男二人も変わらずいいスパイスになっていたし、名もない水夫は太郎ちゃんと張るくらいの肉体美(!)だし、和田勉夫人の衣装は絢爛豪華だし、うーん、濃くて重くてもうおナカいっぱい。。。になりそうなところが、意外と胃の中はさっぱりしてたりして。
それこそが、寺山修司の彼たる所以。


自分は小6で三島に傾倒した三島派(笑)だけど、寺山にも三島にも通じるのは、あの揺るぎない第三者的視点であるような気がする。どれほどに叙情的なエピソードでも、自分の一部は必ず萱の外にいて、冷えた視線でじっと中を覗き込んでいる。
三島との決定的な違いは、そこに母性の存在があること。
育み護り、支配し束縛し、記憶と時を共有する、母性。
マリーから欣也へと向けられていた母性が、ラストでは見事に逆転する。
しゃがみ込んだ欣也が静かに目を塞ぐラストには、不覚にもただ一瞬で涙が出てしまった(そしてすぐに引っ込んだ(笑))。
傍らの”母”を抱きしめるでもなく詰るでもなく、ただ、僅かな距離を置いて同じ仕草をとるしか術のない少年。
その哀しいスタンスに、この世界のすべてが集約されている。


とかなんとか長ったらしく書いているけど(笑)、一番のhitは美少女・紋白を演じた若松武史氏!(>ω<)
もう、問答無用で100点さしあげる!(笑)
(てゆーか、紋白ポスター作ってくれてたら即!買ったのに。。。!(;>ω<)/)
あの動き、あの衣装!(あ、あれもワダエミデザインなのか。。。?(^-^;)
TVでもよく見かける役者さんではあるが、この品の作り方、どこかで。。。?と思ったら、そうだ!『パラダイス・サーティ』でゲイのママ役やってたんだった!と思い出してようやくすっきり。(笑)


帰宅してちょっとネットに繋いだら、大好きなコナンサイトさまの裏キリを踏んでしまい、さらに舞い上がる!(笑)。
。。。欲望の地平線は、果てしなく遠い。
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