無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年11月30日(木) 実相寺昭雄氏、死去/映画『ヅラ刑事(ヅラデカ)』

まずは訃報から。
以下の二つの記事を比較してみたいと思う。

【讀賣新聞】
> 「ウルトラマン」演出、実相寺昭雄さん死去
> テレビ番組「ウルトラマン」シリーズや映画「帝都物語」で知られる映画監督で演出家の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが、29日午後11時45分、胃がんのため死去した。69歳。
> 告別式は12月2日午前10時30分から、東京都文京区湯島4の1の8麟祥院で。喪主は妻で女優の原知佐子(はら・ちさこ)さん。
> 東京都生まれ。早稲田大学卒業後、1959年、東京放送(TBS)に入社。66年の「ウルトラマン」をはじめ、「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などの特撮ドラマを演出し、69年の短編「宵闇せまれば」で映画を初監督。翌年同社を退社後、長編第1作の「無常」を手がけ、映画「曼陀羅(まんだら)」「あさき夢みし」などで、日本的な精神風土に迫る作品を撮った。 - 11月30日13時31分更新

【毎日新聞】
> <訃報>実相寺昭雄さん69歳=映画監督 ( - 11月30日 10:40)
> 「ウルトラマン」「帝都物語」などで知られる映画監督の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが29日午後11時45分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。葬儀は12月2日午前10時半、文京区湯島4の1の8の麟祥院。自宅は非公表。喪主は妻で女優の原知佐子(はら・ちさこ=本名・実相寺知佐子)さん。
> 早稲田大卒業後、1959年、ラジオ東京(現TBS)に入社し、ドラマの演出をへて映画部に転属。「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などの演出を手がけ、69年「宵闇せまれば」で映画監督デビュー。TBS退社後、「無常」「あさき夢みし」など、実験的作品を発表した。陰影を強調した奇抜な構図や、エロチシズムを追求した作品で、根強い人気を獲得した。
> 88年「帝都物語」、98年「D坂の殺人事件」、05年「姑獲鳥(うぶめ)の夏」などの小説の映画化や、「アリエッタ」「ラ・ヴァルス」などエロチシズムを描いた作品を精力的に監督。夏目漱石の小説が原作のオムニバス映画「ユメ十夜」の一編、自身が演出したテレビ番組を映画化した「シルバー假面(かめん)」を監督し、公開予定だった。
> 舞台やオペラの演出、「ウルトラマンのできるまで」などの著作も多数。東京芸術大学名誉教授。


 一見して、毎日新聞の方が実相寺監督の業績を簡にして疎なく、まとめている。
 毎日は、舞台やオペラの演出をされていたことにまで触れているが、近年、映画以上に実相寺さんが舞台に傾注していたことを思えば、愛に溢れた記述と言ってもよい。
 それに比べて、「讀賣」の味気なさは何なのか。
 いったい、「記事の書き手は実相寺さんの何を見ているのか」と怒りを覚えるほどだ。
 「日本的な精神風土に迫る作品を撮った」というのは、ありふれた表現で、しかも的確とは言いがたい。批評の言葉としては、浅薄過ぎると言ってもいいだろう。
『歌』や『曼荼羅』、『あさき夢見し』と言ったATGでの一連の作品、果たしてそれらをそういう大雑把なくくりで捉えていいものかどうか、という疑問が湧いてくる。

 「大雑把」と言うなら、「毎日」も同様ではあるが、「陰影を強調した奇抜な構図や、エロチシズムを追求した作品で、根強い人気を獲得した」の方が、まだ具体的に映像の特徴を捉えていると言えるだろう。
 映像の意味・解釈などは、観客が勝手に想像すればいいことで、最初から「説明」してしまっている「讀賣」の記事は、ほとんど記事とは言えない言葉の羅列に過ぎなくなっているのだ。

 讀賣から毎日に乗り換えようか(苦笑)。


 「実相寺昭雄」の名前をいつごろから意識し始めたのかはよく分からない。
 『ウルトラマン』本放送時の私は3歳。とてもじゃないが、各輪演出のスタッフの名前までは知りようもない。「円谷英二」だって、「エンタニエイジ」と読んでいたのだ(私は早熟だったので、3歳でも漢字は読めていた)。
 多分、『ウルトラシリーズ』でも、いささか毛色の変わった作品ばかりを集めた総集編版ウルトラマン、『故郷は地球』(ジャミラ)や『空の贈り物』(スカイドン)、『怪獣墓場』(シーボーズ)などの回が、同じ監督の手になるものだと知ったころだから、10代の半ばくらいだろう。

 正直、それらのエピソードは通常のイメージの怪獣ものとはあまりにイメージがかけ離れていて、当時の私にはつまらないとすら感じられていた。
 もちろん、今見返せば、怪獣ものの衣装を借りた優れた風刺SFとして評価できるのだが、私は円谷一監督作品に代表される、もっぱら正統的な怪獣対決ものにのみ狂喜していたのである。
 ただ重いだけでぶかこっうなスカイドンや、寂しくて地面を蹴ってすっころげるシーボーズなどは、怪獣の風上にも置けない失敗作としか思えなかった。
 当時の実相寺作品で私が唯一好きだったと言えるのは、『ウルトラセブン』の『狙われた街』(メトロン星人)のみだろう。これは、ウルトラマンの生みの親、金城哲夫と実相寺昭雄が唯一組んだ作品である。
 昨年の『ウルトラマンマックス』の「狙われない街」で、メトロン星人を再登場させたのは、実相寺さんの金城さんへのオマージュもあったのかもしれない。

 結局、私が実相寺昭雄作品に目を開かされるのは、『怪奇大作戦』の再放送(本放送時は、やはり子どもだったのでコワくてマトモに見られなかった)を待つことになる。
 『恐怖の電話』では初めて桜井浩子女史の美しさにクラクラし、『京都買います』では岸田森のペシミズムに酔い痴れた。

 岸田森演じる牧史郎の持っているあの暗い影の正体は何なのだろう。
 紫煙をくゆらせ、京都の街を彷徨する彼はその煙よりも実態がないように見える。
 謎を追い、解き明かし、真実を追い求めながら、かの「探偵」は、まるで浮き草か幽霊のように街に翻弄されて、女の変貌した仏像に恐怖し、遁走する。
 そうだ。彼は「遁走者」としてあの街の中にいたのだ。
 牧史郎ばかりではない。
 実相寺作品の登場人物たちは、誰も彼もが真実に向き合おうとしながら、どこか逃げ腰だ。『姑獲鳥の夏』の探偵たちは、京極堂も榎木津も関口も、恐らくは真相にとうに気付いていながら、その解決を導き出すのに不必要な手間ばかりをかける。
 原作がもとからそうなのだとも言えるが、霞の中に漂うように屹立する久遠寺家の描写は、現実を映し出そうとする監督のそれではない。当然、徘徊する登場人物たちも、現実・真実に相対する存在としてそこにいるのだ。

 ヘビースモーカーである実相寺監督は、その紫煙で我々を煙に巻くように、非現実で不条理な世界を描き続けていく。にもかかわらず、その世界で浮遊する人間たちは、非現実的でありながら極めて性的で生々しいのだ。
 彼らはみな、自分の血が赤く熱いことを知っている。そしてその血の呪縛から逃れられないがゆえに、重苦しい「影」を背負わざるを得ない。

 彼らの背負っている「影」は、彼らが生きている「街」に縛られ、その「街」から逃れようとし、逃れ切れずにもがいているがゆえにうまれてくるものなのだ。
 後に実相寺作品が江戸川乱歩の世界に傾倒していくことになるのはごく自然な流れであったのかもしれない。探偵明智小五郎も、対峙する犯人たちも、さながら曼荼羅のように秩序と混沌を内包した「街」に精神を支配され翻弄された遁走者であったからである。
 「犯罪」とは、『罪と罰』の例を挙げるまでもなく、この世界の不条理を、個人が咀嚼し超越することのできる唯一の手段だからだ。

 そして、実相寺さんが常に仮装敵国として認識していたその「世界」は、その「街」とは、紛れもなく実相寺さんの生まれ故郷である「東京」であった。
 その通り、実相寺作品は全て彼自身の『東京物語』なのである。
 『京都買います』が京都を舞台にしていたのは、後の『帝都物語』へ至る伏線であったと言えよう。

 東京はなぜ破壊されなければならなかったか。
 東京が曼荼羅だからである。曼荼羅の持つ広大なエネルギーから、その呪縛から、開放されなければならなかったからである。

 実相寺演出において、映像の中にしばしば夾雑物が置かれるのはなぜか。
 伴奏曲としてクラシックが多用されるのはなぜか。
 仙人然とした実相寺監督は、「カメラの切り返しがラクだ」とか「単に好きだから」と、観客の疑問をはぐらかすようなことを口にするが、そうではあるまい。
 これはコントラプンクト(対位法)による世界の破壊と再生なのである。

 そのようにして実相寺作品を観る時、それらはは「日本的な精神風土に迫る作品」程度のものではないことが見えてくる。
 一連の実相寺作品は「ノアの箱舟」の物語であり、人間の再生神話なのだ。

 20代を過ぎて、私はようやく大島渚らと組んだATGの一連の作品に出会った。
 再び映画監督として脚光を浴びることになる『帝都物語』や『悪徳の栄え』にも魅せられた。まあ失敗作としか言えない『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』もまた、神話の物語であると微笑ましく見ることはできた。
 『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』『姑獲鳥の夏』など一連のミステリーの最も斬新かつ上質な演出の手際に、この監督はいつまで経っても先鋭的なのだと感服した。

 しかしそんな傑作群の中でも、一本を選ぶとしたら――。
 私はやはり、『京都買います』を選ぶだろう。
 実相寺昭雄の分身は、現実世界でも胡蝶を追い求め、幽冥の境に生きた岸田森しかいないのだから。



 シネ・リーブル博多駅で、『ヅラ刑事(ヅラデカ)』を見る。
 監督はご存知河崎実だが、監修は『日本以外全部沈没』に続いて実相寺昭雄。
 偶然、追悼の意味を込めての映画鑑賞となった。

『ヅラ刑事(ヅラデカ)』
 (2006年/提供:バップ/クロックワークス/エースデュースエンタテインメント/ツイン/ローソンチケット/オー・エル・エム/スカパー・ウェルシンク/リバートップ/トルネード・フィルム)

【スタッフ】
 プロデューサー・脚本・監督 河崎実
 監修 実相寺昭雄

【キャスト】
 ヅラ刑事:モト冬樹/オヤジ刑事:加納良治/デカチン刑事:イジリー岡田/デブ刑事:ウガンダ・トラ/イケメン刑事:桐島優介/チビ刑事:なべやかん/トンコ:橋本まい/面堂啓介<ボス>:中野英雄/仁多博士:ドクター中松/友情出演:飯島愛/特別出演:さとう珠緒

【ストーリー】
 明らかにヅラのため、犯人を不安な気にさせる。
 そして必殺技はヅラを投げつける「モト・ヅラッガー」!
 東京でもっとも猥雑な街・新宿の花曲署の刑事たちは、独特のキャラクター揃い。
 ヅラを投げる必殺技を持つヅラ刑事(モト・冬樹)、並外れたチンチンを持つデカチン刑事(イジリー岡田)。さらにデブ・チビ・オヤジ・イケメンと、様々な個性の刑事たちがいる。
 一見マイナス要素の男たちだが、彼らは捜査になると素晴らしい力を発揮するのだ。
 彼らを統率するのは沈着冷静な捜査一係長・面堂(中野英雄)。これから一癖も二癖もあるどころか、全身癖のクレイジーな刑事たちの大活躍が始まる!!


 もちろん南郷勇一も登場(笑)。
 全編馬鹿映画なのは言うまでもないが、モトさんが決しておちゃらけた芝居をせずに、ヅラを投げるにしろ真剣に演じているのが素晴らしい。馬鹿馬鹿しいと言うのなら、没羽箭張清も銭形平次も荒唐無稽なのだ。
 ハゲをからかうギャグはベタで、使い古されていると批判する向きもあるかもしれない。けれども、ちょっと考えていただきたい。人類がハゲを気にするようになったのは、いったいいつのころからなのか。

 エジプトのミイラの中には、かつらをかぶっているものも発見されているということである。本邦においても、九世紀ごろ、延喜の治、醍醐天皇の御代に既にかつらの記録があると言う。
 人間の美醜の感覚が国や時代によって変化するのは当然だが、「ハゲを気にする」感覚は、国家間、世代間を越えて、かなり人類に普遍的な悩みであると言えるのだ。

 「はげちゃびんだけはイヤ!」と恋人に拒絶される若き日のヅラ刑事。
 笑ってしまうが、そんな馬鹿げた理由で彼氏を振ったり、そもそも告られても相手にしない女性は、結構大多数なのではなかろうか。
 となれば、ヅラ刑事の苦悩は、我々みんなの苦悩なのである。ハゲをおちょくるギャグが古くなることはない、と断定していいだろう。
 自分が老人になるとは想像もしていない若い観客、A級映画しか見ないと称するヒョーロンカ、笑わば笑え。この「何でもあり」な精神こそが映画を作る原動力になるのである。

2002年11月30日(土) 大掃除Part2/CD『檸檬』(遊佐未森)/DVD『サイボーグ009 バトルアライブ9 〜審判〜』
2001年11月30日(金) 心臓止まってもDVD……バカ?/ドラマ『五辨の椿』第1回/DVD『ハレのちグゥ』3・4巻ほか
2000年11月30日(木) チラシ完成!/『未明の家』(篠田真由美)



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