無責任賛歌
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2005年11月07日(月) |
年老いていく実感/『営業ものがたり』(西原理恵子) |
しげから「医者に行かんでいいの?」と言われていた右手の痺れ、ようやく収まる。 痺れが取れるのに金曜から丸三日掛かったから、やはり尋常ではないのだが、父も退院したばかり、しげもブルーが続いている状況では、入院なんかできゃしないのである。 ミクシィに入ったんで、そっちの日記とか書かなきゃならないということもあるし。そっちがメインの理由になってるんじゃないのか(笑)。 あちこちのコミュニティをちょこちょこと覗いてはいるのだが、さて、どこかに入るべきかどうか、逡巡している。「べき」とかそんな大層なことを考える必要もないだろうとは思うのだけれど、発言のレベルを考えるとねえ、最初に覗いちゃったのが『仮面ライダー響鬼』の批判コミュだったりしたからねえ(笑)。 ちとばかし、臆病になっているのである。
仕事中にしげからメールが入る。 「具合が悪いから、今日行くのやめた」。 最初は目的語がなかったので、何のことかよく分からなかった。ああ、母の法事&伯父の叙勲祝いのことかと、ちょっとして気がついたが、今朝まではそんなそぶりも見せてはいなかったので、いったいどうしたんだとメールを返してみたところ、 「下痢がひどい」との返事。 「昨日飲んだファンタオレンジが悪かったのかも」なんて言うのだが、そんなファンタから訴えられかねないようなことを堂々と(汗)。 多分これもまた、ストレスがカラダに来ちゃった、ということなのだろう。私がいなくて、しげ一人を親戚の中に放り込むのはちょっとキツイかとは思ったのだが、これくらいは耐え切れてくれないと本気で困るのである。 母の通夜に、私としげは出ていない。親戚の陰口にしげが耐え切れなくなったからだ。そのときは父に客の応対を任せることができたが、父が亡くなれば、喪主は私である。しげが親戚の応対に耐えられるかどうか、極めて心許ない。と言うか、私は本気で父が亡くなっても葬式を出すまいかとすら考えているのだ。 もちろん、親戚一同がそんなワガママを許すはずもないので、いかに「簡略化するか」が現実的な判断なのだが。以前、区役所に葬儀屋を紹介して貰えれば、かなりコンパクトにしてくれると聞いたことがあるのだが、本当だろうか。
「具合が悪いなら迎えにも来れないか?」と問い合わせたら、「それは大丈夫」と返事。 そう言いながら、帰宅した途端に、しげは薬を飲んで横になって寝込んでしまった。心とからだのバランスが完全に崩れてしまった感じだが、直後に父から電話が掛かってきて困った。 「具合はどげんや?」 「どうもこうも寝とるよ」 「大丈夫や? 医者に行かんで」 「今日はもう病院、閉まっとうやん。明日も具合が悪いようやったら、病院連れてくよ」 「そげんせいや」 一応そう言って電話を切ったが、まあストレスが消えれば腹の調子も元に戻るだろうから、医者に行くほどのことはなかろうとは思う。けれども、恐らくはこういうことがこれからも頻繁に起きることも予想はつく。どこかで踏ん張って、目の前の壁に立ち向かって貰わなければ困るのだが、有効な方法がいつまで経っても見つからない。他人から見ればたいしてプレッシャーでもないことを、無理やり自分の中でプレッシャーに仕立て上げているのだなあと、その過程は見えるのだが、それを改めるためにどうしたらいいのかが分からないのである。 やっぱり部屋の中にずっと閉じこもってるのがよくないのだろうと、仕事に就くようにせっついているのだが、「自分は仕事が出来ない」とまた勝手に思い込んでいる。思い込むことで仕事に就くまいとしている。これじゃいつまで経っても悪循環の堂々巡りだ。 私もかなり疲れが溜まってきていて、睡眠時間をたっぷり取っても、やはり寝たりなくて、朝が特に億劫である。目がはれぼったくて、コンタクトレンズがどうにも午前中は目に乗らない。以前、入院した時と、「疲れ具合」が似通ってきているのだが、しげがこれ以上、足を引っ張るようなら、本当にしげのことを忘れるしかないかなと思い始めているのである。これは別にしげと離婚するとか、そういうことではないのだが、しげのことを考えるのを止めるということだ。
コンタクトをするようになって、自分の素顔を久しぶりにまともに見るようになった。目の下のクマがかなり激しい。疲れた土気色の、何か病気を持っていそうな中年というよりは初老の男の顔がそこにある。髪はもう1/3が白髪だ。明らかに実年齢より10歳は老けている。 父の葬式くらいはちゃんと仕切って死ねたらなあと、そんなことを考えている。
マンガ、西原理恵子『営業ものがたり』(小学館)。 前作『女の子ものがたり』が、いつのまにか「サイバラさんをもっとメジャーにして売り出そう」キャンペーンの『営業ものがたり』にシフト。 充分、儲かってるはずだけどなあ、でも『まあじゃんほうろうき』のころから本来手に入ったはずのお金がなぜか他人のところに行ってしまうのをセキララに見せられているからなあ、つか、そんなのまでマンガにしちゃうから、ワラワラとタカリが寄ってくるんだと思うけどなあ、そう言えばサイバラさん、ア○ウェ○にも入ってたはずだけど、あれもダメだったんだろうなあ。 「未だに自分の単行本が『に』の棚にある。」と世間に認知されてないことを嘆かれているが、マンガの世間への浸透度なんて、マンガ家やマンガファンが思っているほど広くも深くもないのである。手塚治虫が国民栄誉賞取れない国だから。秋本治も「未だに『こちら葛飾区亀有交番』とか言われる」と憤慨しているのだから。 かく言う私も、マンガに詳しいなどとはとても言えない。ミクシィのプロフィールで、「好きなマンガ」を100挙げようとして、ある事実に愕然としたのだ。ベスト100を選ぶに当たって、自分で、「連載中の作品を除いて、完読している作品のみを挙げる」と決めて選び始めたのだが、ふと気がつくと、その基準で行くなら、自分には「赤塚不二夫や藤子・F・不二雄は殆どの作品が選べない」ことに気が付いたのである。 『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『レッツらゴン』、全て、途中までしか読んでいない。『オバケのQ太郎』に『ドラえもん』も同様だ。これらの作品は、完全版がなかなか出なかった、という事情があるが、それにしても博捜して読むまでのことはしなかったのだから、「好きなマンガ」と堂々と言うわけにはいかない。しかし、『ドラえもん』ファンと口にするもので、てんとう虫コミックスないしは藤子不二雄ランド版で『ドラえもん』を全巻揃えている人間は何割かしかいないのではあるまいか。長谷川町子の『サザエさん』を完読している人は、この日本には数%しかいないと思う(文庫全集は完全版ではない)。 話が逸れたが、まだまだサイバラさんは恵まれてる方だと思うので、ちょっとくらい発行部数で倉田真由美に抜かれたからって、ヒネなくていいと思うのである(ポーズだけだと思うけど)。
で、今回のメインはオビにもある通り、「サイバラ版『PLUTO』」である、『うつくしいのはら』。「プルートは私でもよかったんじゃないのお」の冗談発言から駒が出ちゃって、現実になっちゃった企画であるが、「ロボットが描けません」と泣きを入れるサイバラさんがいじらしい。もちろん、サイバラさんなりにロボットを描くことも可能だと思うのだが、サイバラさん流の韜晦で言うなら、「勝ち組の勝ち土俵にあがって勝負するほど、こっちもあたま悪くはないわよ」である。もちろんこれは、「勝ち組の勝ち土俵に上がったって勝てるのだが、それは浦沢直樹に敬意を表してやらない」ということだ。 「サイバラに『PLUTO』が描けるかよ」と「本気で」思っているやつがいたら、そいつはマンガというものが全く分かっていない。 そうして、土俵からリングアウトして(土俵アウトと言うべきか)描かれたのが、オビに「サイバラ、生涯の最高傑作」と書かれた『うつくしいのはら』である。アトムもプルートゥも出てこないが、これは間違いなく、西原理恵子にしか描き得ない、『PLUTO』であり、『火の鳥』なのだ。 少女は毎日、教会に行く。教会に行って、字を習う。字を習えば、働けるようになるからだ。働いて、家族が一緒に暮らしていけるようになるからだ。 あるとき、少女は、野原で兵隊の死骸を見る。少女は死んだ兵隊と会話をする。どこから来たの? 家族はいるの? 何でこんなことをしてるの? 死体は語る。「家族を食べさせたかった」。 それは少女の願いと同じものだった。 少女は大人になる。大人になって、子供が生まれる。少女は子供に語りかける。 「あなたは、あのときの兵隊さんでしょ? 私にはわかっているの」……。
物語はまだ終わらない。終わらない物語が示される。それは一つの輪廻の輪であり、だからこそこれが『火の鳥』にオマージュを捧げた物語であることは見当がつくし、『鉄腕アトム』もまた『火の鳥』の一エピソードになるはずのものであったとすれば、まさしく本作は『アトム』と『火の鳥』のミッシング・リンクを繋ぐ機能を有していると言えるのである。西原理恵子もまた、「手塚治虫の子」であったことを示す貴重な作品だ。 本短編集には『ぼくんち』の番外編も収録されている。乱雑マンガの合間に時折発表されるサイバラさんの抒情マンガに、「あざとさ」を感じる読者もいるようだが、西原さんの精神的基盤がどこにあるかを考えた時、その「あざとさ」を単に「泣かせるための技巧」と言ってのみ裁断できないことははっきりしているのではなかろうか。 少なくとも西原さんは、自分の過去を顧みて、その底辺の生活をモデルにしたマンガを描きながらも、自分が本当に「不幸」だと思ったことは一度もないはずだ。「お涙頂戴」で『ぼくんち』や『ゆんぼくん』を描いてきたことはない、と思う(ご本人に質問したら、韜晦して「あれは『お涙頂戴よ』と仰るかもしれないが)。
読者がこの『うつくしいのはら』をテクニックとしてしか読めないのであれば、そちらの方が「不幸」なことであると思う。 アトムはロボットである。ロボットであるアトムは、「いつになったら、ロボット同士、争わずにすむ未来が来るんでしょうか」と慨嘆した。これはもちろんロボットにはある寓意が込められているのであって、人間の中にも人間に奉仕することを運命付けられている「人間」がいるということを示唆している。言わずもがなであろうが、それが「兵士」なのだ。 世界の歴史上、「兵士」が存在しなかった時代はない。人間の生が繰り返されることと、争いの歴史は等価であった。だからアトムは「いつになったら」と口にするしかなかった。永遠の逡巡が、『地上最大のロボット』の裏テーマとしてある。西原さんはそこに着目したのだ。そして、手塚治虫を語る場合にもう一つ、見逃せないモチーフをそこに付け加えた。 西原さんの「兵士」は語る。 「ぼくたちはいつになったら、字をおぼえて、商売をして、人にものをもらわずに、生きていけるの?」 この疑問は誰に向かって投げかけられているか。「母」にである。運命とは何であるか、人間の宿命とは何であるか、答えは、いつの時代でも、常に、母によって語られるのである。 もうこれ以上、説明する必要はないだろう。『うつくしいのはら』は、西原理恵子によるマンガで描かれた「手塚治虫論」なのである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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