無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月23日(土) 映画とマンガの感想だけで手一杯/映画『50回目のファースト・キス』

早起きできずに、『ウルトラマンマックス』を見逃す。
 もっとも何話か見てそんなに入れ込むほどじゃないなあと思っちゃったんで、特に惜しいとは思わないが。

 九時にはしげを叩き起こして、天神、ソラリア・プラザへ。目的は映画『50回目のファースト・キス』。
なんたって、久方ぶりのダン・エイクロイド出演作である。熱烈なファンのしげが初日の一番に来ようと、絶対に寝過ごすまいぞと、いつもなら金曜の夜は映画を見に行く習慣になっているのに、夕べばかりは誘いを断って帰宅、10時には寝床に入っていた。けれど早寝したらしたで10時間は寝こくのがしげというやつである。結局は私に起こされることになるのだから、全く当てにならない。
 ソラリアプラザは、デカいビルの中にあるわりには三館共通のロビーは狭く、スクリーンはどの館も小ぶり、以前、何度か来たときには上映事故がやたら起きて、私とは相性が悪い映画館である(『美女と野獣』を見に来たときと、『押絵と旅する男』を見に来たとき。後者のときは仕事があったので途中で退席しなけりゃならなくなった。故・浜村純さんも来られていたのだが、この事故のおかげでサインを貰い損ねたのが痛恨である)。
 けれど福岡でこの映画を上映するのはここだけだから、選択の余地はない。しげが「先頭で見る!」と言い張るので、アゴをしゃくって見上げながら一時間半の映画に見入る。
 ストーリーはもう最近は「流行」としか言いようのない「短期記憶喪失障碍」がモチーフ。舞台はハワイ・オアフ島。交通事故で一日だけの記憶しか保てなくなったルーシー・ホイットモア(ドリュー・バリモア)。彼女に恋をしたのは水族館で働くナンパ男のヘンリー・ロス(アダム・サンドラー)。手練手管で女たちをコロリと騙し、次から次へ女から女へと渡り歩くのは、ヘンリーが基本的に女性不信だから。しかし、ルーシーに出会って、恋をして、けれど次の日には自分が忘れられてしまうことを知って、何とかして自分のことを覚えていてもらいたいとあの手この手を使って、彼女の記憶を蘇らせようと試みる。その結末は……。
 ヘンリーの紹介をする冒頭シーンの演出がまずは実に上手い。オアフ島でバカンスを過ごしてきた女たちが、それぞれ帰国して友人たちに旅で出会った彼がいかに素敵だったかを口々に語る。でも、それは全てひと夏だけの恋。彼とは旅の終わりと同時に別れた。彼の名前は「ヘンリー・ロス」。女たちがその名前を次々に口にして、そしてアダム・サンドラーのアップにつなぐのだ。観客のアダムファンの女たちはきゃーと嬌声を挙げ、フェミニストの男たちは女の敵めと憎しみの目を向けるところだろう。
 けれど、演出自体はうまいけれど、どうもサンドラーがこういう心に傷を持っているナンパ男のイメージを体現しきれていない。これがもう少し若いころのジム・キャリーか、ブレンダン・フレイザーとかユアン・マクレガーだったらもっと飄々と、けれどちょっとアクな魅力も漂わせて、「らしく」見せてくれそうだって気がするのに、サンドラーはどうにもヌーボーとしているのである。
 サンドラーが毎日のナンパに成功したり失敗したり、その過程も面白くないわけではない。一度成功したナンパ法も、タイミングを間違えると次の日にはもう成功しないのである。けれど、サンドラーが中心となるシーンよりも、脇のキャラクターたちが活躍しているシーンの方がずっと面白いのが問題なのである。
 ルーシーの父親・マーリン(ブレイク・クラーク)と弟・ダグ(『ロード・オブ・ザ・リング』のショーン・アスティン!)は、ルーシーに記憶障碍であることを気づかせないために、同じ日を毎日繰り返して演じているのだが、おかげで彼らは毎日同じ会話をし、毎日父親の誕生日を祝い、毎晩『シックス・センス』のDVDを見る生活を一年も続けているのである。ああ、何という家族愛。
 ヘンリーは友人のウーラ(ロブ・シュナイダー)に暴漢の役を演じさせて、ルーシーの気を引こうとするのだが、意外にも「強かった」ルーシーにウーラがコテンパンにされてしまう展開は、ベタではあるけれども充分おかしい。
 でも、そういったディテールが面白ければ面白いほど、「ああ、主役がアダム・サンドラーじゃなければなあ」という思いが弥増していくことになるのだ。
 この「毎日リセット恋愛」の結末がどうなるか、ネタバレは控えるが、現実に記憶障碍に悩む人々がいることを考えると、ああいう「ありえねー」形でオチをつけたことには疑問が残る。かといって、リアルに描くことが正しいってわけでもないしなあ。面白くないわけじゃないけど、どうもあちこちに引っかかるものを感じた映画だった。
  あ、しげ待望のダン・エイクロイドの出演は2シーンのみ。ルーシーの主治医の役ね。特に感想述べるほどのことはなし。


 帰宅して、昼寝。
 夕方、しばらく中断していたウォーキングを再会。頻尿がおさまるくらいにならないと、医者にも顔を出せないのである。


 マンガ、荒川弘『鋼の錬金術師』11巻(スクウェア・エニックス)。
 未だに原作派とアニメ派との間で不毛な争いが続いているらしいねえ。こういう騒動が起こるたびに「メディアが違うものを単純比較することなどできない」という批評の基本を提言する人もいないわけではないんだけどね。でも、感情的にしかモノを見られないオタクや腐女子は自分たちがいかに無知蒙昧かつ厚顔無恥な存在であるかを自覚もせずに互いを敵と見なし罵り合うことにのみ汲々としているのである。
 マンガはマンガで面白い部分もあるし、つまらない部分もある。アニメもまた同様である。原作を映像化するとはそもそもどういうことかってことについては本気で語り出せば表現方法を精密に比較しなければならないので単行本一冊くらいの分量が必要になる。そもそも通り一遍に流し見したくらいでは簡単に言えることではないのだ。評論家でもないシロウトにはそれぞれの作品を別物として見る以外に鑑賞のしようがないのであるが、評論家モドキの傲慢な人間がいかに増えたかということである。
 だから、私の場合、『ハガレン』についてはアニメから先に入ったのでアニメ派だと思われがちではあるのだが、厳密に言えばどっち派でもない。シロウトの節度を守って、それぞれを別物として面白い面白くないを語っているのである。
 前置きが長くなったが、「シン国」キャラの登場以降、アニメとは全く別の流れに入って久しい原作であるが、先の10巻でラストが死亡、「七つの大罪」のホムンクルスは一応全てが登場、ホーエンハイムもついに姿を現しと、いよいよ佳境に入るかと思われたのだが、今巻でちょいと流れが停滞してしまった。佳境に入る前だからこそ、人物や設定をもう一度確認し直す必要があったのだということは分かるのだけれど、「アルは本当に人間の体に戻れるのか?」ってのを今更再確認しなくてもよかったんじゃないのかなあ。話を進展させようとして余計なことをするとかえっていびつなものになってしまいがちだけれども、エドやアルの心理描写にどうにも納得のいかないものを感じてしまうのである。
 エドとアルが人体錬成したのは、母親・トリシャではなかったという衝撃の事実。普通なら、そこで自らの愚かしさにもっと打ちのめされてもいいんじゃないか? 「死者は蘇らない」「禁忌を犯した者には罰が下る」こんな当然のことにも気づかなかった大馬鹿者は、もっと罪の意識に苛まれても当然じゃないかと思えるのに、それがなんであんなに簡単に「アルは元に戻れる!」と希望に転換させられるのか。いくら口でアルに対して謝ってみせても、エドには贖罪の意識があまりないんじゃないかという感じがして仕方がないのである。
 『ハガレン』が二人の「罪」から始まった「贖罪」の物語であり、自らの欠損を取り戻す中で、「誰も傷つけず失わず」の理想を追い求め、ハッピーエンドを目指すものであるのならば、まだ「悩み方が浅い」と思うのである。二人が錬成したのがトリシャでないなら。あれは何だったのか? そこでもまた「誰か」が「犠牲」になっているのではないか? どうも作者がそういうところまで考えてストーリーを作ってるとは思いにくいんで、引っかかって仕方がないのである。


 マンガ、今市子『百鬼夜行抄』13巻(朝日ソノラマ)。
 映画『シックス・センス』よりもずっと早く、ホラーとミステリーをずっと洗練された形で(しかもユーモアすら交えながら)描いてきたシリーズの最新巻。
 要するに主人公の飯嶋律がオスメント少年に当たるわけだが、相変わらずイマイチ頼りにならない。もしかしたら読者の人気は26年ぶりに異界から帰ってきた律のおじ・開の方が高いのかも知れない。多分、律よりも「力」は強いだろうと思われるのだが、律の危難に対して、あまり協力的でないどころか、状況が悪化するのを面白がって見ている気配すらある。
 もともとこの物語の設定自体が必ずしも人間中心主義・勧善懲悪主義では描かれておらず、何の罪とがのない人間だって、禁忌に触れて死ぬこともあるし、魅力的なキャラクターやかよわい女子供があっさりというか時には残酷に退場させられることもままある。共通点も多い『蟲師』と比べても、かなり作者の現実を見る目が冷徹であることが垣間見えるのである。
 そんな中で右往左往する律や、霊感あるのに自覚症状のない天然娘の従姉・司、律の祖父・蝸牛の使い魔だった妖魔・青嵐や、飯嶋家の庭の桜に宿っている律の家来の妖魔・尾白と尾黒なんて「お笑い」キャラたちが中心になっているから暗いムードにならずにすんでいるものの、そうでなけりゃ、このシリーズ、結構陰惨な山岸凉子的世界になっていたかもしれない。まさに恐怖と笑いは紙一重か。
 今巻は、先述した開の見合い相手の家・白川家に巣食う妖魔たちの攻防を描く『夜半の客』、晴れ着に取り憑いた妖魔の除霊と青嵐の「分裂」というショッキングな事件が起こる『晴れ着』、「生きた細工物」を作る青年・三郎と、律のもう一人の従姉・晶との恋の行方を追う『月影の庭』『餓鬼田の守り神』を収める。
 時間経過こそあるものの、まったりまったりとたいした状況の変化もなく進んでいくかと思われていたのに、初めて見つかった青嵐の「本体」(鏡の精だったんだねえ)がいきなり割れちまうわ(だから律は妖魔から身を守る術を一時的にせよ失っているのだが、あまりに狼狽するものだから、まるで悲惨な雰囲気にならない)、三郎はどうやら次巻あたりで完全に「あっち」の世界に行っちゃいそうだわ、作者はシリーズの完結も視野に入れつつあるような感じである。
 ホラーミステリーの教科書と言ってよいようなハイレベルの作品も多いから、もっと続いてほしい気もするのだが、15、6巻くらいが限度かなあ。

2004年07月23日(金) 『キャンディ・キャンディ』が“今のところ”リメイクされない理由
2003年07月23日(水) 神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』
2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか
2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか



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