無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
2005年01月28日(金) |
映画をイデオロギーのみで見てしまうことの愚/映画『パッチギ!』 |
なんとか週末まで凌いだが、今日はしげの方がダウン。迎えに来る元気がないというので一人で帰る。あとで一緒に映画でも見るか、と誘ったが、それも断わられた。また心のバランスが崩れて夕べは一睡もできなかったそうだから、今日は昼から寝込んでしまっているのである。でも眠れなくて次の日眠り込んでるんだったら、やっぱり眠っているわけで別に不眠症ってわけじゃないと思うんだが、これって心のバランスよりからだのバランスの問題じゃないのか。
博多駅、シネリープル博多で、映画『パッチギ!』。 タイトルの「パッチギ」はハングルで「頭突き」のこと。朝鮮人にとって頭突きはなんかアイデンティティーに関わる文化なのか? よく知らんけど。
在日朝鮮人を題材として扱っているとなると、その批評はどうしても「思想」がらみで語られてしまうことが多い。Yahoo掲示板の批評、感想の中には絶賛もあれば罵倒もあるが、罵倒の殆どが「思想」がらみの発言であった。脚本だの演技だの演出だのについての批判が出て来ないあたり、通常の映画の鑑賞とは全然違った捉えられ方をしている。それはこの映画にとってはかなり不幸なことである。
正直な話、私も見る前は露骨なプロパガンダ映画になってたらどうしよう、と危惧していたのだ。実際に見てみると、確かに日本の過去の罪を糾弾する描写が若干ありはしたものの、しつこく感じるほどのものではなかった。この程度の映画を思想的に偏向している映画であるかのように非難するのは、神経過敏に過ぎまいか。映画も含めて全ての芸術活動が時代の産物である以上は、政治と全く無縁であることは不可能ではあるが、かと言って、「政治のみ」で穿った見方をしていいってものでもない。絶賛も罵倒もこの映画に関して批評している人間は、著しくその精神のバランスを崩しているように思う。 もちろん、「なんで北朝鮮の肩ばっかり持ちやがるんだ」という意見が出てくるのは理として分からなくはない。私も映画を見ていて一瞬眉を顰めたのは、ヒロイン(在日朝鮮人)が主人公(日本人)に「ふたりがいつか結婚するとして……あなた、朝鮮人になれる?」というセリフだった。聞いた瞬間だけではあるが、「相手を自分に合わせることだけ考えて、おまえは日本人になる気はないのかよ」と突っ込みたくなったわけである。けれど、現実問題として在日朝鮮人の方から日本人になることは周囲から「迎合」と見なされるので、簡単には言えないという事情も分かりはする。それにこれは、民族としてのアイデンティティの問題でもある。プロポーズされているのは自分の方なのだから、ここで「私も日本人だったらいいのに」なんてセリフを言ったとしたら、あまりにリアリティに欠けるというものだ。 「在日朝鮮人はどうして帰化しないのか?」という疑問は、短絡的というよりもパトリオティズム(自国に対する誇り)が理解できないゆえのもので、そういうセリフを口にする人は、「日本は実質アメリカの属国なんだからさっさとアメリカの州の中に入れてもらえばいいんだ」と言われても怒りもしないのだろう。いや、そう言われて腹が立つっていうんだったら、朝鮮人に対しても同様のセリフは言っちゃいかんだろう。他人の傲慢には憤っても自分の傲慢は見逃すというのでは人間としての格が低過ぎるというものである。
でもほかにも見ていて「なに言ってやがる」と思ったシーンはあった。 登場人物の一人(在日朝鮮人)が事故で死んだあと、葬式の席で遺族たちが、主人公(日本人)に強制連行の話を持ち出し、涙を流しながら「帰れ」と怒りをぶつける場面である。 この映画の時代設定は1968年、作中で語られることはないが、当時既に北朝鮮による日本人の拉致は行われ始めていた。我々観客は、当然、そのことを知った上でこの映画を見ているのだが、井筒監督、そういう観客の心理状態まで考えずにこのシーンを撮影したのではないかと訝んでしまう。 在日朝鮮人でも拉致に加担していた人間、工作員のスパイ活動に密かに協力していた人間もいたはずで、それは葬式に集まっていた人々の中にも混じっていたのではないか、どうしてもそのように感じてしまうのだ。となると、「あんたたち日本人は何も知らん」と、笹山高史が切々と「強制連行」という“過去”の日本人の非道をなじる言葉も、言葉通りに素直には受け取れない。「拉致」という“現在”の北朝鮮人の犯罪を隠蔽しようとしているかのように聞こえてしまうのだ。また、連行の問題についても全てのケースが「強制」だったとは言いきれまい(逆に全て「強制ではなかった」と断定するのも強弁に過ぎるが)。 更に言えば、確かに死んだ在日の人物は日本人との抗争の最中に命を落としたのであるが、直接の死因は不慮の事故なのであって、日本人に殺されたわけではない(だから警察も動かない)。遺族が主人公に恨みをぶつけるのはお門違いなのである。笹山高史さん、すばらしい演技を見せてくれているんだけど、見てるこちらは「いや、それ違うって」と突っ込まざるをえないのであった。
けれど、だからと言ってこの映画の「全体」が親北朝鮮に傾いているかと言うと、それもまた違うのであって、先述した「葬式の席で主人公が遺族になじられる」シーンは、実は映画の構成上では「旧世代の無理解」として描かれている。 主人公は、朝鮮学校の少女に恋をして、自分も在日朝鮮人の人たちの気持ちがわかるようになりたいと思っている。そんなときに知ったのが放送禁止歌『イムジン河』だった。主人公は南北分断の悲劇を歌った歌を、日本と朝鮮の間に生まれた深い溝を悲しむ歌として受けとめ、歌うようになる。その気持ちに打たれたからこそ、少女も、また少女の兄や仲間たちも次第に主人公に心を開いていくのだが、親たちの世代はいつまでも「過去の亡霊」に囚われたままだ。だから自分たちの主張はするが、他人の言葉は一切聞き入れようとしない。 そんな彼らに、ヒロインの少女は『イムジン河』をラジオで歌う主人公の声を聞かせる。これは、いつまでも「強制連行」に拘り、日本人に心を開こうとしない在日の人々に対する痛烈な批判である。朝鮮人自らが朝鮮人批判をするこの描写をして、「北朝鮮寄りの姿勢」とどうして言えるだろうか。 朝鮮人を批判するためには、まず朝鮮人が何を言っているのか、それを描かなければならない。だから朝鮮人の「強制連行」について在日の人々が語る描写は必須だろう。しかし、それが結果的には日本人、朝鮮人の間の溝を深める原因になっていることを井筒監督はちゃんと描いている。そこまで見なければ、この映画を見たことにはならない。“問題は旧世代の朝鮮人の偏狭さにこそあるのだ”。 これだけ明確に「朝鮮人批判」を行っている映画がなぜ正反対に受けとられてしまうのか、そんな観客・批評家を「映画をマトモに見てねえバカだから」と言いきることも可能ではあるが(先入観が眼を曇らせている可能性もあろう)、それだけでもない。そこには映画自体が持っている「ディテールの魔力」が根底にある。 『ファインディング・ニモ』が「自然を大切に」というメッセージを強く持つ映画であったのにも関わらず、公開後クマノミの乱獲が始まった、という報道を耳にした人は多かろう。観客は映画から「メッセージを受け取ろう」と思って見に行くわけではない。だから全体の構成とか物語とかテーマとか、そういうものよりも印象深い部分的な要素に強く影響を受ける。「クマノミかわいそう」よりも「クマノミかわいい」の感情の方が勝ってしまうことになる。この映画の場合も、笹野さんの名演などがあまりに際だっているので、「映画全体としての主張もそこにある」と勘違いしてしまいそうになるのだ。映画が描いていくのは殆ど「若い世代のケンカの日常」ばかりなのだが、困ったことに、若手俳優が束になっても笹野さん一人の演技に叶わないのである。かと言って、ヘタな役者にあえてこの役を振るわけにもいかない。カメラもその名演に惹き込まれて笹野さんの顔をどアップで映しだしてるからよくないんだが、笹野さんのセリフに「説得力」が生じてしまうのはいかんせんどうにもならない。ともかく映画のディテールにのみ拘って全体を顧みない批評が批評としての意味を持つか、いささか精神のバランスを崩している方はちっとは落ちついて映画を見て頂きたいとだけは言っておきたい。極端な賞賛も非難も、どちらもこの映画の本質を見誤っている点では同じなのだ。 朝鮮高校と地元の高校との抗争、というのは全国各地で起こっていた現象であって、その根底に過去の歴史が関わっていたことは否定しないが、それが全てでもない。言っちゃなんだが現実のケンカなんて、相手が朝鮮人か日本人かというのは殆ど気にしていないか、あるいはケンカを正当化するための後づけのリクツをくっつけただけで、実際には表層的かつ衝動的な「あいつ気にくわねえ」といった程度の、不良同士の低レベルなものである。この映画でも、若者同士のケンカは殆どそういう形で描かれている。だからたとえ主人公とヒロインが恋に落ちても、グループ同士の抗争が解決されるわけではない。『ロミオとジュリエット』のように、お互いが過ちを認めて最後は仲良くなりました、メデタシメデタシという安易な結末ではないのだ。井筒監督がこの映画を北朝鮮プロパガンダ映画、反日映画として作ろうとしたのなら、こんな結末には絶対にしないだろう。 「全体」としてはこの映画、お互いの間にどんな問題があろうと、恋したいものは恋をする、政治とか歴史とか知らねえよ、という能天気なまでの「青春映画」である。それをムリヤリ政治の場に引き出して批評しようというのは、八百屋に向かってなんで肉売ってねえんだと文句をつけるくらいの難癖である。 井筒監督自身は、今の日本の政治に対していろいろ不満は持っているのだろうが、少なくともそれを映画の中にストレートに出すことはしていない。映画をエンタテインメントとして構成する際に、自分の思想の修正も行っていることは明らかである。「オレたち大人は日ごろ、過去の歴史がどうの、現在の政治がどうのと言ってるけど、映画を見にきたお前ら若いヤツラはそんなん気にせんと、好きに楽しんでてええんやで」とでも言いたげなように物語は爽やかだ。井筒監督に対して何か個人的に恨みがある人は、直接、監督に会って文句をつけて頂きたいもので、個人に対する中傷と、映画の批評とを混同させないで頂きたいものである。
……とまあ、『パッチギ!』を擁護するような言い方を長々と連ねはしたが、だからと言ってこれが面白い映画だったかというと、そうでもないんのが困ったことで(^_^;)。 井筒監督は生真面目なくらいセオリー通りのホンの映画を作る人で、しかもその基本にあるのはベッタベタでコッテコテな大阪的人情喜劇である。全体的にソツはないのだが、地味で垢抜けていなくて、ケレン味や意外性の面白さは感じられない。それでも前作『ゲロッパ!』の場合は、西田敏行のジェームス・ブラウンというよくも悪くもものすごいものを見せてくれたのにひっくり返っちゃったのであるが、それ対して、今回はあまりに大人しすぎる。不良同士のケンカも何度も繰り返されると迫力が落ちる。せいぜいオダギリジョーを見ながら「坂崎幸之助」って昔はこんなことしてたのかなあ、と面白がれるくらいか。
映画館を出て、電源を切っておいた携帯を見るとしげから着信あり。 何の用事かと思ってかけてみると、か細い寂しげな声で「どこにおると?」聞いてくる。 「映画に行くって言っとったやんか」 「連絡がつかんけん、事故かと思った」 どうも寝惚けていて、映画に行く前に電話でやり取りしていたことをキレイサッパリ忘れてしまっていたらしい。連絡取った意味がないのである。 あまりに寂しそうな声を出していたので、お土産にマクドナルドのハンバーガーを買っていってやった。なんかまた期間限定でダブルたまごバーガーとかいうのが発売されていて、こないだから「たまごたまご」とうるさかったのであった。
日記を復活してほぼ一ヶ月、けれどその前の休止期間がかなり長かったので、もう読んでる人も少なくなってるんじゃないかと思っていたのだが、アクセス記録を見てみると一日百人は覗きにきていらっしゃるようで、ありがたい限りである(同一パソコンからのアクセスは再カウントされないので、ホントに百人以上の人が来られているのだ)。 と言いながらその大半はGoogle検索の通りすがりさんである。ここ一週間くらいでなんだかなあ、と思うのは、「真野裕子」でアクセスしてくる人がやたら多いことで、一日十件くらい来るのである。 でもそんなんで来られても、ご提供できる情報なんで全然ない。つかあると思って来てるのかよ。「レイクサイド」でも「役所広司」でも「薬師丸ひろ子」でも、全く1件のアクセスもないってのに、毎日毎日なぜか「真野裕子」「真野裕子」「真野裕子」である。 ……まあ、あれでしょうね、『レイクサイドマーダーケース』で被害者役を演じて、美しいヌードも披露されているから、興味を持たれた方が「眞野裕子って誰?」ってことでなんかちょっとでも情報がないかと躍起になって探されておられるのでしょうが、ご苦労様なことでありんす。 もしかしてもしかして、一億分の一か十億分の一くらいの確率で、眞野裕子さん本人が、自分の出演した映画の評判を知りたくて片っ端から調べているという可能性もないわけではないが、ない話であろう。 ……でももしホントにホントにそうだったら面白いから、メッセージを書いとこう。「眞野さーん、あなたのおっぱい、私が今までに見てきたヌードの中でも5本の指に入るほど形がよくってお美しいおっぱいでしたよー(^o^)」。 さあ、みんなも眞野さんのおっぱい拝みに『レイクサイド』見に行こう! ……あ、前回はついうっかり「真野」って書いてたけど、正確には「眞野裕子」でした。旧字体だったんですね。誠に申し訳ありません。
2004年01月28日(水) 何となくな再開。 2003年01月28日(火) 肉は飲みこめ!/『トレイル・オブ・ピンクパンサー』/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN ランバ・ラル編 Ⅰ・Ⅱ』(安彦良和)ほか 2002年01月28日(月) 多分、しょっちゅう見ている夢/『おせん』其之三(きくち正太)/『END ZONE』1巻(えんどコイチ)ほか 2001年01月28日(日) 宴のあと
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記
☆劇団メンバー日記リンク☆
藤原敬之(ふじわら・けいし)
|