無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月27日(月) 歴代1位?/『グランサー』1巻(長谷川裕一)/『寄生獣 完全版』1・2巻(岩明均)/『アンナさんのおまめ』1巻(鈴木由美子)ほか

 1月26日の日記の続き。
 
 DVD『帰ってきたウルトラマン』5巻。
 前巻ラストの16話『大怪鳥テロチルスの謎』と今巻の17話『怪鳥テロチルス東京大空爆』も前後編。
 『ウルトラマン』のころはほとんどなかった前後編、『帰ってきた』ではやたらとあるが、怪獣が2体以上出る時にはゴージャスな気がしたものの、本作のようにテロチルスしか出ない時には一本の作品を二本に水増ししたような印象がして、あまり嬉しくなかった。
 今話のゲストは当時青春スターのトップを走っていた石橋正次であったが、こいつと彼女の悲恋物語など、怪獣少年の私にはクソ面白くもなんともなかったのである(^o^)。翌昭和47年、『飛び出せ!青春』や『アイアンキング』に石橋さんが出演するようになってファンになり、ようやく心のワダカマリは解けたのであった。
 この2話放送、『帰ってきたウルトラマン大全』では「より高い視聴年齢層の獲得に向けて」のテコ入れであった、とあるが、ドラマを青春路線にシフトするのは大きな勘違いだったと思う。見ていた方は「ああ、高いギャラ取る役者使ってるから2話に水増ししたんだな」なんて思ってたんだから(←つくづくかわいくない小学生である)。
 しかし、テロチルスも2話もかけてウルトラマンと戦ったわりにはあっけなくやられるねえ。空から落ちて死ぬだけって倒され方、どうなんですか。やっぱ怪獣ってのはやられる時もハデにドドゥッ!と倒れて、ババーン!と爆発したりジョワワッ!と溶解したりしてほしいものである。

 第18話『ウルトラセブン参上!』。
 コメンテーター(^o^)市川森一の初参加作。
 うーん、ベムスターのデザインは好きだったんだがなあ。どうもテコ入れ臭さが強くてオハナシとしてはなんかチグハグなところが目立つんだよなあ。
 こういう新参の脚本家入れるとさ、これまでのシリーズとの整合性が崩れることよくあるんだけど、そういう面もあるんだよね。
 冒頭、加藤隊長とマットステーションの梶キャプテン(南廣!)がロスタイムなしで衛星通信を行ってるのには目をつぶろう(^_^;)。これが宇宙怪獣ベムスターにステーションごと食われちゃうんだけど、梶の死ぬカットってのが描かれなくて丸飲みされちゃうから、案外、救出ポッドとかに隠れてて助かるんじゃないかって、見てる方は思うわけよ(宇宙怪獣に食われてるのに助かるかい、というツッコミは意味なし。ちゃんと死んだカットがなきゃ、正義側が助かることはよくあることだ)。でもやっぱりラストまで死んだままだから、どうもドラマに乗り切れない。
 これまでのシリーズで優柔不断にすら見えるくらいに慎重派だった加藤隊長が、親友を殺されたからって錯乱するのも違和感があるし、みっともない。
 でもやっぱり、納得いかないのはウルトラセブンが助けに来るとこだよな。なんでわざわざウルトラセブンが飛んで来なきゃならないのか、脈絡も必然性もないし、唐突な印象がするばかりだ。それに『ウルトラセブン』の最終回が印象に残ってる身にとっては、「おまえ、カラダ治ったんなら、自分が地球守れよ!」とか「わざわざ地球の近くに来たんならアンヌに会ってやれよ!」とか言いたくなっちゃうんである。
 もっとも、このウルトラセブン、声が村越伊知郎だったから(これもクレジットなし)、実は本人じゃなくて、よく似たセブン上司の一人だったのだろう(^o^)。
 しかも、セブンからもらったウルトラブレスレット、新兵器ってほどのもんじゃないしなー。八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュなんて言いたくねえ)使えよスペシウム光線も効かないから光輪もダメってことなんだろうけど、安易な武器の増強はウルトラマンの超人性を低めるだけの話だ。

 19話、20話は簡単に行こう。
 19話『宇宙から来た透明大怪獣』の忍者怪獣サータン、このへんから怪獣のデザインが「なんじゃこりゃ?」ってのが増えてくるんだけど、初期の怪獣をデザインしていた池谷仙克さん、1クール13話で降りてたんだね。こいつのデザイン、初代ゴジラの雛形を作った利光貞三さんなんだけど、なんかどっかの妖怪画で見たことあるんだよなあ。あの、『妖怪大戦争』に出てた「二面女」にも似てるし、どこかに元ネタがあるんじゃないか。
 20話『怪獣は宇宙の流れ星』、タイトルでオチをバラしているという、トンデモナイ話(^_^;)。磁力怪獣マグネドンを倒せないMATが、佐竹参謀から「無能」だのなんだのケチョンケチョンに言われた末に「解散」まで言い渡される。なんだかほかのウルトラシリーズに比べても、一般庶民から防衛軍まで、ことあるごとに「MATは何やってんだ」と言われてる回数がメチャ多い気がするんだけど、「解散」したら、誰が怪獣と戦うんですか。
 このアタマの悪い脚本を書いたのは、サヨク脚本家で元大島渚組の石堂淑郎。権力側のアタマの悪さを強調するあまり、脚本自体のリアリティが消えちゃったことに気づいてないのね(^_^;)。
 なんかいろんな人が絡んでたんだねえ、このシリーズ。
 

 DVD『ジャングルはいつもハレのちグウ デラックス』6巻(完結)
 封入パンフの金田一蓮十郎さん(今さら言わなくてもいいと思うがうら若き女性である)の書き下ろしマンガ、ハレの「最終巻のジャケットはこれでいいのか? てゆうか内容もさぁ…もっとこう…」という呟きが笑える。
 ダマと銀行強盗の2ショットで、主役陣は陰に……っつーか、ハレ、ハレの形してないし(^_^;)。
 いや、でも前後編でこれまでで最高の脚本、作画と演出レベル。やっぱもう、ハレグゥはダマっすね。\(^^\) (/^^)/ア、ソレソレソレソレ。


 マンガ、長谷川裕一『クロノアイズ グランサー』1巻(講談社/マガジンZKC・560円)。
 『クロノアイズ』シリーズ第2弾。
 前作で提示された「時空間が枝分かれして行く」というパラレルワールドに関するSF設定(いわゆる「ハックルベリーの無限大」だね)、それ自体は前作をシメるアイデアとしてはよかったんだけれど、となると、救える未来は救えるし救えない未来は救えないってことになって、なんかスッキリしなくなる。『ドラゴンボール』もそれで失敗してたし。
 というわけで、「監視者」としての「クロノアイズ」ではなく、「視線者」=「グランサー」の登場。これで歴史の「修正」が可能になったってわけやね。SF的にどうこう、ってのも大事だけどさ、読者がキモチヨクなれるかどうかって視点をちゃんと長谷川さんが理解してくれてるのが嬉しいね。
 新シリーズともなれば当然、新キャラも加わる待ってましたの展開。
 でもって、やっぱりロリキャラかい、ってとこにはあまり突っ込まないよーに。長谷川さんのマンガだもの、一方にアナみたいなグラマーだけどじゃじゃ馬ってタイプがいれば、ビメイダーP……じゃなくて、サイボーグ・ヒルダのような○○で○○なタイプがいないとバランスがとれないではありませんか(何のバランスやねん)。ああ、もちろんちゃんとあ〜ゆ〜シーンやこ〜ゆ〜シーンもありますから、ご安心を(〃∇〃)。

 ああ、それにしても今回の「コミケ破壊指令」編、オタクで読んでてイタくなっちゃう人、多いだろうな。……え? なんですか? 私は別に痛くありませんよ?“あのころは”コミケにゃ参加してませんでしたから(^o^)。
 未来から来た考古学者、ナスターシャ・キンスキー(猫のコスプレつき)、ジャパニメーションの隆盛が世界戦争を回避したと固く信じる彼女は、グランサーに、時空犯罪者による「1980年」のコミケ破壊を阻止してもらうよう、依頼にやってくる。
 この「1980年(昭和55)」ってのがキモだね。いやもう、会場見るとあっちこっちにラムがいるわ、えーっと、トチロー(鳥さんつき)、ソルジャー・ブルー(デブ)、クラリス、セイラさん、仮面ライダー、V3、ゴレンジャー、メーテル、デスラー、バルタン星人、グレンダイザーなんてのが闊歩闊歩してんである。ヒルダの「この国はくるっています!」というコトバが、なんと説得力のあることか(^_^;)。アメリカが銃社会となって狂ってしまったのに対して、日本はオタク社会となることで象牙の塔となりつつあるのではないか(テキトーなこと言ってるだけだからマジで受け取らないよーに)。
 うっかり若き日の両親(ラム&シャア)に会って、その結び付きをジャマしてしまったタイキ、時間犯罪者を探すだけでなく、「ばっくとぅざふゅーちゃー」もしなければならなくなる。
 よくあるネタだと軽んずるなかれ。なんとタイキの両親、犯罪者に「現代」に誘拐されてしまうのだ。このときの父さんのリアクションがまた楽しい。
 ビッグサイトを見て、「み、みらいとし!」(そう言えば10年前、しげが初めて福岡の天神イムズの中に入った瞬間、全く同じセリフ言ってたな)、ゲームボーイを見て「最低でも100年は経っているっ!!」、あのへんにあるよく分らないノコギリのモニュメントを見て(私もこないだ初めて見た)「モビルスーツが実用化されているんだ!!」。
 ……まあ、1980年の人間がホントにタイムスリップしてきたらそう思うわな。江戸時代の侍が現代に、って思いつきなら誰でもするが、「1980年のオタクが現代に」なんてアイデア、長谷川さん以外の誰に考えつけよう(^o^)。
 はい、もちろんオチもSFのセオリーに則っております。マンガでSF読むなら長谷川裕一。できればこの第2部も長く続いてほしいな。
 

 マンガ、岩明均『寄生獣 完全版』1・2巻(講談社/アフタヌーンKCDX・各900円)。
 『スラムダンク』以来、なんだかはやりだしたねえ、完全版。
 カラーページを再現して、大判にしたってだけなんだけど、同じ企画があっちこっちで立つってことは、結構売れてるのか。最初の単行本買ってた人の中にも、改めて買うって人、いるだろうしね。
 『寄生獣』はネットカフェで読んでたんで、現物は持ってなかった。二度買いにならずにラッキーである(『ドラゴンボール』は買ってたけど、誰かに貸しっぱなしになってるらしく、手元にない)。
 BSマンガ夜話で、以前いしかわじゅんがこのマンガに関しても「絵がヘタ」発言をして物議を呼んでたみたいだったけど、確かにデッサンが随分「固い」。現実以上にキャラクターが骨と関節に支配されていて、あれでは登場人物はみんな肩凝りと関節炎に悩まされてしまうだろう。
 骨格自体がそんな感じだから、口なんかが崩れて、「骨格に合わない」動きをしてしまうと、ひどく不自然になってしまうのである。
 要するにマンガ表現としてまだまだコナレていない。これは近作の『ヘウレーカ』などが随分「コナレてきている」のと比較すれば一目瞭然だろう。もちろん、そのぎこちない表現が逆に「骨格にとらわれない」寄生獣の動きと好対照をなしているので、これ、決して欠点になっていない。絵の荒さがかえって安穏とした人間たちの愚かさぶりを表している部分もある。
 そういうところを指して、「絵はヘタだけれどマンガとしては正しい」という言い方がされていたのだと思う。いしかわじゅんの批評も、的ハズレなことばかりではないのだな(^o^)。
 しかし、今回読み返して思ったのは、このマンガのルーツに『デビルマン』があることは確か岩明さん御本人も述べられてたと思うけど、ほかに『風の谷のナウシカ』もあるのだね。「人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか」なんて、宮崎駿が言いそうなセリフだ。いや、あの人なら半分なんて中途半端なことは言わないかな(^_^;)。
 寄生獣はまさしく王蟲たちである。大海瀟と救世主の物語だったわけだ。



 さて、ここから1月27日。

 24日放送の『千と千尋の神隠し』、平均視聴率が46.9%で、劇場用映画としては『キタキツネ物語』(1979)の44.7%を抜いて、歴代最高記録を更新したんだって。瞬間最高視聴率は52.3%。
 日本テレビが宣伝にも随分力を入れていたからそこそこは行くかと思ってたけど、そこまでとは正直、驚きである。ビデオの売り上げもダントツだし、まだ見てない人ばかりがテレビに見入ってたってわけでもないだろうな。多分リピーターも結構な数がいたと思う。しかし、そんなに何度も見たくなるものなのかね。宮崎駿本人も言ってるぞ、「アニメ見てるヒマがあったら外で遊べ」(^o^)。いや、夜だから遊べないけど。
 このままアカデミー賞取ったら、多分凱旋リバイバル公開するんだろうね。そのときには英語版の公開もあるだろう。『もののけ姫』のときには英語版はそれほどヒットしなかったようだけれど、この分だと英語版もそれなりにヒットしそうである。今年はジブリの新作がないけれど、これでまた充分オカネが稼げちゃいそうだね。もう、『ハリー・ポッター』が何作続こうと、『千と千尋』を抜きさることはほぼ不可能だろう。
 でまあ、ここまで売れてるもんにイヤゴト言うのもなんだけどさあ、やっぱリどうにも「宮崎駿ファン」としてはヒトコト愚痴をこぼしたくもなるんだよねえ。……「おまえら、宮崎駿の映画、たいして見てないじゃん」。
 すげえ不遜な言い方だってことは承知してる。けどさ、別に宮崎さんが一スタッフだったころの初期作品まで見ろって言ってるわけじゃないよ。「宮崎作品が好き」とか言ってる連中の中でさ、『未来少年コナン』を見てないとか、『ルパン三世 カリオストロの城』を見てないとか、『風の谷のナウシカ』を見てないとか、そういうやつって結構いるんだよ。
 映画は作家で見るものではなくて、作品で見るものだ、という反論は言えるだろう。けれど、そのデンで行くなら、役者目当てで映画見るのも邪道だってことになるんだよ? 現実には、「こんなスバラシイ映画を作る人の、ほかの作品を見てみたい」という気持ちになってもいいと思うんだけど、それがなぜか「トトロどまり」になっちゃってる人って多いんだよね。

 どうもねえ、そういう人たちの見ている「宮崎駿」と、私の見ている「宮崎駿」って違うような気がするんだよ。いや、どっちかがホンモノの宮崎駿ってことじゃなくて、そりゃどっちもニセモノなんだろうけれど、彼らがどういう「宮崎駿」を見たがっているか、それがよく分らないのだ。
 宮崎駿に何を見てる? ヒューマニズムなの?
 「生きる力」なんか喚起してる? ただキャラがかわいいから好き?
 ここまでバケモノになってしまった宮崎作品なんだけど、なぜそこまでの存在になってしまったのか、どうもそれを表すためのコトバが未だに現われてはいないように思えてならないのだ。これが「ただの」愛とか優しさとか環境保護(^o^)とかを語ってるだけのアニメなら、こんなバケモノになりはしない。いったい「宮崎駿」って何なの?
 もちろん私にも全然、答えは思いつかないのだが、疑問自体が浮かんでこない今の「宮崎ブーム」が、私には得体の知れない妖怪が側でニヤニヤ笑ってるように感じられて。およそキミが悪いのである。
 
 
 晩飯は「しーじゃっく」で回転ずし。
 すし大臣に寄ろうと思ったら、休みであった。
 明日は寄ろう……なんてこと書くと、なんかすげえ豪勢な生活をしてるように見えるかもしれないが、貯金は全くないぞ(威張るな)。


 マンガ、鈴木由美子『アンナさんのおまめ』1巻(講談社/講談社コミックスKiss・410円)。
 しげはなぜか鈴木由美子の新刊が出るたびに買ってきてるんだが、多分私に隠れて読みながらべそべそ泣いているに違いない(^o^)。
 『白鳥麗子』も『音無可憐』も、鈴木由美子の描くヒロインってのは全部「勘違い少女」で、その勘違いがいつ壊れるかも分らないっていう、綱渡り状態にある。そこから落っこちちゃうんじゃないか、あっ、ちょっと落ちかけたぞ、そこへ現われたヒーローが、そっと手をさしのべる。に助けられる、そのタイミングがウマイから、女の子は涙するのである(須らく、モテナイ男子諸君は鈴木由美子を読んで、女性を研究すべし)。
 本作もそんな感じの出だしで、超絶美人のアンナは、街を歩いていると必ずと言っていいほどナンパされる。ところがそれをアンナの親友、サカナ顔のリリは、自分が注目されてると思いこんでいるのである。
 さあ、ここまではこれまでの鈴木マンガと一緒。順当に行けば、リリはそのうち「もしかして私ってブスだったの?」と不安に思う瞬間が来る展開になるところである。
 ところが全然そんなふうにならないんだよねえ。リリの「自分がかわいい」という錯覚にはいささかも揺らぎがないのである。「ブース」と言っても聞こえない、地球上の男は全て自分に注目すると思っている(ブス過ぎて注目されているのだが)。アンナの彼氏の恭太郎が、つい「こんなブスにはオレが側にいてやらなくちゃいけないかも」と血迷って言い寄っちゃったときも、「しつこくしないでもね、超ウザイしー」ってな反応である。、ここまで来ると、これまでの鈴木マンガと違って、リリに感情移入はしない。絶対にしない。
 しないけれど、もう、リリにはどんどこ勘違いしまくって、エスカレートしてほしくなるのである。もちろんそれは、リリのために周りの人間が(特に恭太郎が)不幸になっていくためである。人の不幸は蜜の味♪ 全く、ヒロインの彼氏でもないのに勝手に不幸にされていくって、こんな理不尽な話はないが、意外と運命ってそういうものかもしれないよ(^o^)。
 ハッキリ言って大同小異のマンガはか描いてこなかった鈴木由美子の、ようやくやってきた新境地ってとこだろうか。(2003.2.19)

2002年01月27日(日) 寝ててもDVDだけは見る(^_^;)/アニメ『コメットさん』第43回(最終回)/DVD『マジンカイザー』3巻/『キカイダー01』3巻ほか
2001年01月27日(土) 祭りの前



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藤原敬之(ふじわら・けいし)