無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年01月26日(土) 食事中には読まないで下さい。/『ラーゼフォン』1巻(百瀬武昭)/『増量・誰も知らない名言集』(リリー・フランキー)ほか

 給料が出て何が楽しいって、そりゃ、本やDVDがいっぱい買えるから♪
 ……いや、「いっぱい」はちょっと、難しいけどさ(充分いっぱいだろう、という声はこの際、無視する)。
 体調は相変わらず優れないけれど、今日を逃すと、買い物に行く時間が取れない。
 しげは今日も練習、ということなので、一人で天神まで出かけることにしたのだが……。

 いや〜、自分の体調、甘く見てたね。
 地下鉄に乗るまではたいしたこたあなかったんだが、着いた途端、ハラが急に「ふんごろぴー」と鳴り出した。
 慌ててトイレに掛け込んだが、何しろ普通の便ではない。
 血便どころか、便はほとんどなく、ただ血がダラダラと流れてくるばかりだ。いくらケツをシメたって、まるで効くもんではない。
 ズボンを下ろして便器に腰かけた時には、既にパンツはぐっしょり血塗れ。
 しょうがなくパンツだけ脱いで、とりあえず便器に水を流してジャブジャブ洗う。血と便の匂いが交じり合って、臭いの臭くないのったら(臭いんだよ)。けれど、水だけじゃとても匂いは取れない。
 仕方がないので、外を見まわし、人がいないのを確かめて、洗面所で洗浄液をつけて洗う。……あ、下半身は当然ズボンのみです。
 なんだかなあ、齢四十になろうってのに、公衆便所の洗面所でこっそりパンツ洗うハメになるとはなあ。
 駐車場そばの、あまり目立たないトイレだったから、人は来なかったけどよ、ちょっとヒヤヒヤもんだったぜ。
 ともかく、匂いを少しでも取ろうと、よく絞る。
 ノーパンのままじゃさすがに下半身が落ちつかないので、とりあえずしっとりしたパンツを履いて、トイレットペーパーをフンドシのように腰に巻く。特にケツの穴付近には念入りに。要するにトイレットペーパーで作ったオシメである。
 これぞ生活の知恵(違うって)。
 でも実際に小一時間は持つんだからバカにはなりませんよ、トレペの吸収力。

 なんかなあ、しげはよく私が仕事休むのがサボリじゃないかって疑ってるけど、こんなケツにシマリのない状態で仕事したらどんな事態になるか想像してほしいもんだってんだ。

 え? 買い物はどうしたかって?
 もちろん買って来ましたよ。
 ちょっと「作業」中にシャツに染みがついちゃったけど、多分、福家書店のおねえちゃんも、ベスト電器LIMBのおねえちゃんも気がつかなかっただろう。匂いはトレペオシメでしっかりガードしといたし。


 ひと月ほど前から、縁があって、別名を使って、某サイトで謎の小説を連載してるんであるが、ここしばらく体調が悪くて原稿が送れないでいた。
 ようやく、停滞していた何回分かの原稿を書いて、相手に送る。
 即座に先方からご返事があって、望外なことにお褒めの言葉を頂いたのだが、正直な話、恐縮するばかりである。
 なんかもー、最近は自分の書いたものを書き散らしてて全然見返してないからねー。とゆーのも、前にも書いたか知らんが、過去の原稿を読み返したり、一回書いたものをしばらく寝かしといてそれから加筆訂正したりすると、しげが「卑怯」って言うのよ。
 しげに言わせると「推敲」は「ズル」以外のなにものでもないらしい。誤字だろうと、文章のねじれだろうと、一度失敗したらそれを訂正してはならんのだそうだ。私にはそんな考えの方がバカだとしか思えないし、自分の書いたものに責任を持つのは当然だと思うんだが、あまりにしげが「ズルだズルだ」とうるさいものだから、ホントにたまにしか見返さなくなった。それも「これは前に書いたかなあ」という確認のためだけである。

 だから、今、私の書いてる文章はほとんど「無責任」の産物である。そんなもんを人のホームページに送り付けて、あまつさえ掲載までさせてるんだから厚顔無恥もいいとこなんだが、それでも先方に喜んでもらえると素直に嬉しい。
 反面、私もしげと長年暮らしてきたせいか、しげのダークサイドにかなり影響されていて(しげ本人はかなりペシミスティックな性格です。でも会った人間にそれと感じさせないのは、マジで記憶力がなく、自分の暗い性格まで忘れてしまうからです)、「どうせ外交辞令なんだ、本当は原稿送られて掲載せざるを得ず、困ってるんだ、打ち切るきっかけを探してるに違いないんだ」とか、つい思っちゃうこともあるのである(しかし、こうしてみるとしげの思考法って、人間としてダメだよな)。

 ところが、そちらのホームページで久しぶりにチャットをしてみると、「次の展開はどうなるんですか?」と質問の嵐。しかも過去ログ見ると、私がいないときでも「おもしろい」と言って下さっている人が多い。
 チャットって、短い言葉でヤリトリしなきゃなんないから下手な外交辞令が混じる余地ないのね。
 わあ、ホントに期待されてるんだ。
 なんかなあ、実生活じゃあまり楽しいことがないんで、嬉しくてついつい涙まで出てしまう。
 期待に答えられるだけのものが今後も書けるかどうか分らないけれど、時間の許す限り、そっちのほうにエネルギーを割いていこうと思うんである。
 でも、これで「ヒキコモリ」になっちゃったりしたらシャレにならんなあ(^_^;)。


 帰宅したしげに、「いやあ、今日はいっぱい血が出ちゃった」という話をしたら、「で、その血塗れパンツはどうしたの?」と聞かれる。
 「洗濯に出したよ?」
 「……オレの洗濯物も一緒に?」
 「もちろん!」
 「いやあああ! オレの服がきちゃなくなるううう!」
 「大丈夫だよ、二度洗いしてるし」
 「うんちがつくううううう!」
 「つかねーよ!」
 実際、洗ってるんだから汚れるわけないじゃん。何を勝手なこと言ってんだか。
 しかしなあ、自分の○○○○○○○○○○○は平気で私の洗濯物と一緒に洗うくせに、私のときだけ嫌がるというのは理不尽だよなあ。
 ウチでは便所掃除も風呂掃除も私の担当(つーか家事全般を結局私がやることが多い)んだが、汚いとこは全部他人に押しつけて自分だけキレイでいたいってのはやはり人間として間違ってる。
 「洗うのは洗っといたんだから、せめて干すだけは干せよな」
 「いやあああ!」
 「いやじゃない! じゃあ何もかもオレに押しつけて、おまえはこのウチで何をするんだよ」
 「……たまにするもん」
 「してねーよ! 自分の妄想の中で生きるなっ!」
 でもやっぱり、この洗濯もずっとほったらかすんだろうなあ。
 仕事の送り迎えもしょっちゅうサボるし、予想してた通り、日々の生活費は車を買う以前より逼迫してきてるのである。
 必然的にしげに渡す生活費もカットせざるを得ないが、それくらいは覚悟しておけよな。このバカ妻め。


 晩飯は「一番カルビ」で焼肉。やっぱりハラのことなんて全然考えてない……というより、うどんや雑炊食っても、薬飲み続けてもまるで治る気配がないならなに食ったって同じだ。
 しげにはロースとカルビの赤身肉、私はもっぱら牛ホルモン。狂牛病をこれほど気にしてない夫婦もそうはおるまい。


 マンガ、BONES・出渕裕原作、百瀬武昭作画『ラーゼフォン』1巻(小学館・560円)。
 百瀬さんって『マイアミ★ガンズ』の人なのだね。アニメの方しか知らんけど、こんな細い線であんな骨太のギャグやってたとは意外や意外。
 しかし中味はっつーと、つまんなくはないけどどうも入れこめる要素があまりないなあ。

 2015年、東京。
 突然始まった「外」との戦争。
 東京は実は時間の流れの違う閉ざされた世界だった。
 本当の世界の流れは2033年。
 謎の美女・遙によって外の世界に連れ出された高校生・綾人は、自分が「ラーゼフォン」と呼ばれる巨大なロボットの搭乗者として選ばれたことを知る……。

 なんつーかね、例えて言えばアヤナミのいない『エヴァンゲリオン』、ルリルリのいない『ナデシコ』を見ているような印象か。
 つまり、ストーリーのカギを握る謎めいたキャラがいないのね。
 ああ、いや、一応「クオン」って美少女キャラがいるにはいるけど、デザイン的に燃えないっつーか、どのキャラも似たり寄ったりにしか見えなくてさ。
 百瀬さん、キャラの描き分けがうまくないぞ。女の子キャラが髪型だけでしか区別出来ん。まずい絵じゃないけど、もうひとつ、華がないよなあ。
 アニメの方のキャラデザインは山田章博だってことだけどどんな出来なのかなあ。福岡じゃ木曜の夕方4時25分(東京じゃ月曜だそうだが)からの放送なもんで、『七人のナナ』を仕掛けている私は、まだ見たことがない。
 ううむ、誰かアニメの方見てる奇特なやつはいないか。


 マンガ、あさりよしとお『HAL はいぱあ あかでみっく らぼ』2巻(完結/ワニブックス・840円)。
 単発の連載が増えてきたなあ、あさりさん。長期連載する気力が続かなくなって来たのかなあ。『カールビンソン』が再開される気配もないし。
 『HAL』もネタ的にはもうちっと続けようと思えば続けられるネタではあるのだ。3巻くらいならキリがいいのに2巻となるとやっぱり打ち切りか? と勘繰りたくなる。
 別につまんないネタじゃないと思うんだけど、あさりさんの作風って、どこか若いころの立川談志に似てるのな(←乱暴)。客イジって遊んでるとゆーか、客の無知をさらけ出してものわらいにするとゆーか。
 まあ、バカにされて喜ぶ自虐的な客ばかりじゃないから、「何様のつもりだよ、エラソウにしやがって」と反発する客も出てくるのは自然の流れだ。それが、あさりさんにSFファンはついても、メジャーになりきれない理由だろう。
 でも、あさりさんのようなSFギャグを真っ向から描いてくれるような作家さんがくすぶってるってのは、SFの裾野が意外に狭いことの証拠だって気がするのだ。
 当たり前の話だが、SFのパロディはそれ自体、SFになっていなければならない。永井豪しかり、吾妻ひでおしかり、とり・みきしかり。先達たちが役目を果たし終えたかのようにリタイアしている今、あさりさんをもっとプッシュしてくれる出版社はないもんだろうか。

 近代科学が錬金術と密接な関係を持って発達してきたことは周知の事実だ。
 合理主義の象徴のごとく語られがちな科学が、意外にいかがわしいのは、例の大槻教授を例に出さなくても、知ってる人には自明のことなんである。
 擬似科学と科学の境界線なんて、専門の科学者にだって区別できないのではないか。つーか、あんたがエセ科学者でない証明なんて出来るのか? そうあさりさんは「科学」そのものに対して挑戦状を突きつけているかのようだ。

 冒頭の「冷凍睡眠技術」の胡散臭さ、あさりさんはギャグに仕立ててるけど、これって、「科学」の名のもとに合法的に行われてる殺人なんだからね。
 現実に治療不可能な病気にかかって、コールドスリープ状態に入ってる人々はたくさんいるらしいのだが、彼らを蘇生させる技術は現代科学にはない。つーか、「死体を蘇生させる」技術が発明されない限り、それは不可能なんだよね。冷凍させてる段階でみんな死んでんだから。
 そんなん科学でも無理だろう、と常識的にはそう判断しちゃうんだけれど、それが「科学」という言葉の持つ魔力だ。「未来の科学技術に期待する」……つまりは「科学はどこまでも進歩する」「いつかは全ての病気が治療可能になる」という根拠のない願望……いや、「信仰」だね、それに基づいて、嬉々として彼らはコールドスリープについたわけだ。

 今でも科学は庶民にとっては錬金術なんじゃないか?
 私だってパソコンの仕組みなんか全然知らないのに、こうして使ってるし。魔法の箱と変わりゃしないがね。
 このマンガのラストで、博士が「21世紀になったのになア…なんか科学の力は行き詰まっているよな」と切なく呟く。科学の発達は同時に科学の化けの皮がはがれていく歴史でもあった。
 宗教にハマった人間があるときふと、「今まで自分は何をやってたんだ?」と目覚めるように、結局は科学も人の心が作り出した「夢」に過ぎないことがわかってきたのだ。
 それでも、我々は「科学」に一縷の「夢」を見る。
 オウム信者が「それでもグルの思想自体はスバラシイ」と言い張るように。
 「夢」を語る者たちが須らく切なく見えるのは、どんなにささやかなものであろうと、それにすがりつかねば自分の心を維持できないくらいに、彼ら自身が脆弱な赤ん坊であるからだ。
 夢見てるヤツって、ママのおっぱい恋しがってるのとかわんないのよ。その夢がいろんな所で破れていく。われわれは赤ん坊のまま放り出される。それでもわれわれは、ママに捨てられたくなくて、相変わらずおっぱいを求めてさまよっているのだ。
 われわれは次に、何にすがりつけばいいのだろう?
 答えのない時代はもう始まっている。
 

 リリー・フランキー『増量・誰も知らない名言集』(幻冬社文庫・520円)。
 こんなに薄いのに520円。216ページしかないじゃん。
 でもまあ、中味がおもしろかったからいいや。
 イラストレーターとしてのリリーさんは(こういう呼び方すると、タイガー・リリーみたいだな)よく知らない。私の認識はあくまで『サウスパーク』のキリストの声の人である。
 しかしキリストをやるだけあって(別に関係ないけど)、世の中に対する目の付け所も一味違うスバラシイ人だ。

 ここに集められてるのは全て「日常」の言葉だ。有名人は誰一人いない。
 けれどわれわれはともすると過去の哲人よりもそこいらのオッサンの言葉の方に何とも知れぬ「重み」を感じることがある。
 リリーさんが採取した「名言」は、例えば次のようなものだ。

 「別にあやまらねぇよ……」
 「感動してるんだァ!!」
 「中で出してないから、ヤッてない」
 「だって、上の方だけだもん」
 「もうちょっとで損するところだったよォ」
 「オレはここでいいからっ!!」
 「女ってさぁ……。なんかヌルヌルしてるよなぁ……」

 もちろん、それらの言葉がどのようなシチュエーションで発せられたか、逐一説明はされている。しかし、それを読む前にこれらのセリフをじっくりと噛み締めて読んでもらいたい。果たしてどのようなシチュエーションでその言葉が発せられたか想像してもらいたいのだ。
 そして、改めて、本文を読む。
 そこには予想もしなかった世界が待ち受けている。
 例えば、最初の「別にあやまらねえよ」。
 誰がどんな状況で発したセリフかお分かりだろうか。
 これ、リリーさんのビルの前で、野グソ(いや道グソか)してたホームレスのおっちゃんのセリフなんである。
 ……えーっと、どういう思考なのだろうかこれは。「ウンコがしたかったんだ、だからしたんだ、おれはホームレスだから世界がおれの便所だ」、そう言いたいのだろうか。それともただの照れ隠しか。
 リリーさんは言う。「何の意味もない」。
 多分そうなんだろうなあ、この「意味がない」という点において、この言葉は実に奥深いものとなってるって思うんだけれど、こーゆー感覚、おわかりいただけるだろうか。
 しかし、ウンのついた日にウンの話を読むことになるとはなあ。なんと西手新九郎であることよ。
 
 われわれのセリフはほぼありふれた、陳腐な言葉で占められているのかも知れない。誰もが似たようなセリフをどこかで発してるかもしれない。
 しかしそのシチュエーションはまさしく千差万別、各人各様であるはずだ。
 だとすれば「名言」はわれわれのそばにも転がっている。
 そう、日々のウンコの間にも。

2001年01月26日(金) 夢の通い路



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