無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年12月14日(金) 多分それは美しさではない/映画『ピストルオペラ』

 一日ゆっくり休んだので、体調はまあまあ。
 ……だったんだけど、仕事に行くとまたすぐ逆戻りだ。
 ともかくシフトが変わったせいで、仕事量が以前の1.5倍、午後になったころには冗談じゃなく眩暈でクラクラしてくるのよ。
 はふーはふーって、息つきながら仕事してるもんだから周囲の眼がヘンなもの見てるようでそれもキツイ。
 もちろん忙しくなってるのは私だけじゃないんで、鬱憤が溜まってる同僚もやたら多いんだけど、文句言っても聞き入れる余地がないからね、ウチの職場。
 このシフト、あともう1ヶ月ほど続くんだけど、既に何人もの同僚が倒れかけている。さあ、これでウチの職場に未来はあるのか(^_^;)。


 しげが「今夜は仕事がないよん」と言うので、予定を早めて映画を見に行くことにする。
 私の仕事が終わるのが、定時で5時15分、映画の開始時刻が6時半。
 映画館までの距離はそう遠くないので、スムーズに行けば40分ほどで着く予定であった。
 なのに着かない。
 高速が作られてもあまり渋滞の緩和に貢献してない気がするなあ。
 職場からウチの近所までで既に30分くらいかかっている。
 しげは運転しながら「間に合わんよ間に合わんよ。映画の前に食事する時間もないよ」とうるさい。
 「食事はマクドナルドでテイクアウトすればいいじゃん。映画自体に間に合わなかったら、どこかで食事して帰ったっていいし」
 予定がうまくいかなければそこで他の対応を考えるって発想に欠けてるんだよなあ。


 心配していたほど車の流れが悪くもなくなったので、なんとか6時10分ほど過ぎて博多駅に到着。マクドナルドと紀伊國屋に寄ったあと、シネ・リーブル博多駅で、映画『ピストルオペラ』を鑑賞。
 清順美学清順美学と、なんで鈴木清順の映画にだけ「美学」を付けるのかなあ、他の映画作家に美学はないのか(まあ、ないのもあるけど)、と、実はこの言い方には内心ちょっと反発している。
 だって、これ、決して誉め言葉じゃないもんね。「芸術」とか「アート」とかいう言葉同様、まともにモノが見えない、いやそもそも見ようともしていないアホンダラが、自分の理解できないモノを「なんやワケわからん」と言いたいんだけれども、でも世間的には評価されてるもんだから、貶すわけにはいかないなあ、貶したらこっちがバカだと思われるもんなあ、ということで、とりあえず持ち上げとけ、という意識で使ってる言葉に過ぎないからだ。
 もっとはっきり言っちゃえば差別語なんだよ、こんなの。
 もしも鈴木清順自身が「ボクの美学はね」なんて言い方したとしたら、こりゃ本物じゃないってことになっちゃうでしょ? だから鈴木清順の映画を評するのに「美学」なんて言葉を使ったものは一切信用しちゃいけません。
 でも、清順さんのスタッフでも、堂々と「美学」なんて言ってるバカもいるしなあ。ヤレヤレ。

 実際、鈴木清順の映画を、単に色彩だの構図だの編集だの、表面的な映像美だけで捉えようとすれば、それはある種、浅薄な、毒々しい一人よがりな映像、と切って捨てることだって可能なのである。『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』の三部作の映像にしたところで、映画としての構成を無視して、一画面だけのデザインを取ってみれば、そうオリジナリティのあるものとは言えない。ちょっと前衛気取りの映像作家なら、『ツィゴイネル』の砂場の蟹の映像くらい、オレでも作れらあ、と豪語するやつはいると思われる。
 解りやすく言えば、「わけがわからない」映画を作るのは、実は誰にだってできる、ということなのだ。清順映画は、「誰でも思いつく模倣可能な映像」の集大成だったりするのである。
 だから巷には「ミニ清順」が氾濫していたりする。
 押井守の『紅い眼鏡』だって、堤幸彦の『ケイゾク』だって、鈴木清順のマネをしていないと言えるかどうか(クエンティン・タランティーノは堂々とマネしてるそうだが『レザボア・ドッグス』は見てないのでよく解らん)。
 ……ちょっと、ここらで注を入れとかないと誤解されそうだから言っとくけどね。私ゃ清順映画を否定しようとしてるんじゃないのよ。映像だけを切り取って評価したらいけない、と言ってるだけなんだからね。

 面白いのは、今回の『ピストルオペラ』において、鈴木清順自身が、自分の映画が、映像としては決してオリジナルなものではないのだ、ということを、堂々と提示していることである。
 オープニングのタイトルバック、このCG映像がデザインから字体に至るまで、実に清順清順している見事な作りなのだが、実はこれは、『ガメラ』シリーズの樋口真嗣の手になるものなのだ。つまりここで鈴木清順は自身の映像の「模倣」を他の監督に作らせ、それを自作のタイトルバックに使うというややこしいことをやってるということになる。
 模倣が本物の中に取りこまれる。
 これがどういうことかお解りだろうか。
 自作の『殺しの烙印』の続編として作られたこの『ピストルオペラ』、この映画の最大の特徴は、これが「鈴木清順による鈴木清順のパロディ」だという点にあるということなのだ。

 ストーリー的には、確かに本作は『烙印』の後日譚という形を取っている。
 宍戸錠が前作で演じた殺し屋、花田五郎は、落魄して偽片足の平幹二朗となって現れているんだから。
 けど、よりによって、こんなに似てない俳優に演じさせる続編ってあるものかと、前作を見ていたものは誰だって思うんじゃなかろうか。人を食ってるどころじゃない、足の長さが全く違うでないの。パタリロの等身が縮んだのと同じくらい、これは全くの別キャラになっちゃってる。
 ……私も鈴木清順の作品をたくさん見てるわけじゃないんだけれども、いつも思っていたのは「このストーリーでどうしてこんな映像を作るか」ということだった。アクション映画でありながらアクション映画のセオリーを外し、情念の世界を描く話を硬質なオブジェで埋め尽くすようなパラドキシカルな映画を作りまくってきている。
 本作も「アクション映画」と言いながら、映像自体はほとんど動いていない。キャラクターを追いかけて画面が動く、なんてシーンが、極端に少ないのだ。
 まるで予算のないアニメで、「止め絵」を重ね合わせて作った作品を見せられているような印象すらある。俳優が走りまくる『太陽にほえろ』的世界とは全く違うのだ。
 なのに面白い。
 面白く見せるためのセオリーを外しているのに、ひたすら面白いのだ。
 主演の江角マキコは殺し屋のクセに動きにくい和服をまとって登場するし、ほかの殺し屋も金髪に黒マントだの、車椅子にジャージの男だの、不死身の怪しい外人だの、山口小夜子だの(^o^)、目立つやつらばかりだ。
 謎の少女は江戸東京たてもの館に住んでやがるし(^^*)。
 大和屋竺に歌わせてた『殺しのブルース』を樹木希林に歌わせたりする感覚はなんなんだろう(^_^;)。このヘンなシーン見るだけでも、入場料金払っただけの価値はあるぞ。
 こんなのを「美学」とかエラソウな言葉で評しちゃいけない。
 これは緻密に計算された「デタラメ」である。
 ヘンではあってもバカではない。
 ヘンとヘンを集めてもっとヘンにした映画だ。
 つまり、「どうしたらストーリーに忠実でなく映画化できるか」と考えていったらできあがったのがこの映画なのだ。でもそのデタラメさが心地よい。いい加減さがさわやかだ。

 ストーリーに忠実な映画と言うのは、実は観客の見方を固定化するものである。観客がカタルシスを感じているのは、安楽椅子に沈みこんでいる心地よさなのであって、自由な風を受けて空を飛翔する爽快感ではない。
 ストーリーと映像が乖離することで生まれる爽快感、自作をも変容させて映像化する、その方法論・スタイル。それこそが「清順美学」ってやつの本質なんじゃないだろうか。
 清順作品がヒットしなかった理由はその辺にあるんだろう。日本人は何だかんだ言って、自由な想像力の中で遊ぶ楽しさよりも、予定調和の物語の中に入りこんでヌクヌクする安心感の方を選んじゃうのである。
 でも、それって映画じゃないじゃん、って私は思うんだけどなあ。

 帰りに期待の映画、『アメリ』の前売券を買う。なんだかんだで、この冬見たい映画の前売り、もう4、5本買ってることになる。でもまだまだ全然見たりないんだよなあ。
 しかもたいていの映画が2週間サイクルで変わりやがるし、休日出勤なんぞしてたら、映画に行く時間が取れんがな。

2000年12月14日(木) 差別語なんて知らないよ/『銭豚』(ジョージ秋山)ほか



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