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第7章 (2) 庭の魂
わたしにも長い間「生活を共に」した木がありました。
/L・M・モンゴメリ(『険しい道』)
銀の森農場のパット・ガーディナーは、アンやエミリーとは少しムードが違っている。モードはパットには文学的野心を与えなかった。ガーディナー(Gardinerは、gardener=庭師と同じ響き)という名前からも彷彿させるように、庭や野原、緑のものたちへの情熱は誰よりも強い。彼女にとって庭や樹木は魂をもった存在で、育った家と家族への結びつきに支えられ、愛を注いできた対象である。晩年「旅路の果て荘」を得てからのモードは、庭づくりにいっそう精出すようになり、庭で撮った写真も残されている。
家は樹木、庭、緑の丘や果樹園の一部をなし、それらのものもまた家の一部をなしている。これらをわかつことはできないとパットは感じた。(中略) 樹木はおおいかくし、愛撫し、影をおとしてくれる。戻れと注意し、進めと手まねきする。西洋ハコヤナギは威厳をあらわし、樺は乙女の優美そのものであり、カエデは友情にあふれ、エゾ松とモミは神秘をたたえ、ポプラは秘密をささやいている。ただ、実際にそうしないだけである。
/『パットお嬢さん』
庭と果樹園は家を取り巻くひとつながりの楽園めいて、さらに静かなる墓地へとつづく。モードが子ども時代の思い出を織り交ぜ、子どもと大人の中間の目線で伝える『ストーリー・ガール』では、子どもたちの遊び場として「キング家の果樹園」が大きな役割を果たしている。子どもたちのサンクチュアリで語られた一族の冒険やロマンスの数々、ストーリー・ガールが腰掛けていた説教石、時にはのどをうるおした実りの果実。一族の誰かを記念して植えられ、世代を超えて長い時を生きる樹木に、思いを寄り添わせる人々がいる。
しかし、果樹園というものは容易に死ぬものではない。
/『果樹園のセレナーデ』
思えば、ギルバートがアンにプロポーズしたのも庭だった。人々に忘れられながらも命をつなぎ、主なき過去の時間に生きる「ヘスター・グレイの庭」(『アンの愛情』)。その2年前、下宿先の「パティの家」でも果樹園で一度目のプロポーズをしているが拒絶され、これは2度目のプロポーズ。庭や果樹園は、家からほど近くて二人きりにもなれる場所でもあったのだろう。
アン自身もパットほどではないにしても、庭には一家言ある主婦だ。子育てに明け暮れる炉辺荘の庭には三色菫が至るところに生えているというイメージが、ずっと印象に深い。アンは夫のギルバートに、「『庭』という文字が入っていさえすればその本を買わずにはいられないのだから」(引用)、と『炉辺荘のアン』で冷やかされているぐらいで、モード自身、夫にそう言われていたのだろうか。
「あたし暗い中で花の匂いをかぐのが好きよ。そうすると花の魂に触れられますもの。」
/アン・シャーリー『アンの夢の家』
花といえば、アンによって日本の読者にもイメージが定着したのが、プリンスエドワード島に春を告げる野生のさんざし(メイフラワー)。日本で出版された島の紀行本には必ず写真が載っているほど。『時の扉の向こうには』の短編「丘と谷の間で」にも訳注があるが、北米産ツツジ科イワナシ属のトレイリング・アビュータスのことを、カナダ東部の沿岸地方ではメイフラワーと呼んでいるという。庭の花ではないし、庭に根付かせることも難しいのだろうが、忘れがたい花である。
旧世界から新世界へやってきた清教徒たちを運んだ船の名と重なるメイフラワーは、新しい歳が始まるシンボリックな花として、日本人が桜に抱くような世代間の記憶を島の人々に呼び覚ますのかもしれない。さんざしのことはアン以外にも多くの作品で描かれている。
見つけるためには探し回らなければならず、見つかってから初めて、その宝──かつて地上に訪れた総ての春の神髄である、星の白さと暁のとき色の花房、芳香というにはあまりにも強烈で神聖な香精を、探索者に貢ぐのだ。
/『黄金の道』(上巻)
だれかが苺について言ったことをわたしはさんざしについて言いたい。 「神はもっとうつくしい花をつくることができたのに、つくらなかった」
/『エミリーはのぼる』
短編集『ルーシーの約束』には、庭を愛するエイブル爺さん(といってもまだ60になったばかり)と若い男性教師の交流を描いた「エイブルの冒険」が収められている。エイブルの美しい庭を舞台に、人生は他人にどう見えようともその人だけの庭なのだと、行間に歳月の遺産が呼び込まれるような描写。数ある短編のなかでも最高の一本だと、私は思っている。
編纂したキャサリン・マクレイの前書きによれば、「エイブルの冒険」は1917年2月の雑誌に発表されている。モードは当時42歳になったばかり。数年ぶりに『モンゴメリ・ブック』と向きあっている私も同じ年代になった。この数年間、最終章を書き進めるのに二の足を踏んでいたのは多忙だけでなく、書き紡ぐためには、私の内に足りないものがあった。「老いる覚悟」とでもいうのだろうか、しかしいま「エイブルの冒険」を再読すると、既知の感慨が内からも湧いてくる。
「何度もお邪魔すると思います。」私は言いました。「たぶんうるさいくらい何度も。」 「そんなふうにじゃなくて、ね、先生――そんなふうにじゃなくてさ。月の出を一緒に、こんなふうに満足して眺めた後じゃないですか。(後略)」
/「エイブルの冒険」
エイブル老人は、短編集『アンをめぐる人々』に収められた「失敗した男」の主人公ロバートをほうふつとさせる。ロバートも農場に住み、「苦痛のはるか向こうに歓喜を見る者の目」(引用)、エイブルやモード自身と同じ、鳶色の目をしている。エイブルの庭と同じく海に面した私の土地の言いつたえによれば、沖合の鯨を見つける役の少年は、鳶色の目をしていなければならなかったそうだ。
『運命の紡ぎ車』では、モードの25歳年下のいとこ、ケン・マクニールが、マクニール農場には祖母(モードと共通の祖母)の家と、ジョンおじさんの家があったと語っている。ジョンおじさんこそは、 「おばあさんの子供たちの中でただ一人、故郷を離れて立身出世の道を求めることをせずに、故郷にとどまって農場を経営した」のだと。
最後に庭の花について。モードは終生バラが好きだったが、それとは別の意味で愛した花に「ダッフォデイル」がある。愛猫にもダフィという名をつけていた。黄水仙の大きな花は仏教的でもあり、「一隅を照らす」ごとく命の復活を告げる。おかげで私にとって黄色い水仙は大小おしなべてダッフォデイルと呼ばれている。庭に欠くべからざる早春の色と香り。白い花の庭が好きなのだが、ダッフォデイルだけは、どの春も咲いていてほしい。そして過ぎゆくどの夏も、モードが描写したように、緑のものたちに見守っていてほしい。
またひと夏終った、ロンバルディ杉の年月を超越した光に照らされて。
/『炉辺荘のアン』
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