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第5章 (6) 女というもの・その2
モードの熱心な読者のなかには男性もかなりの割合を占めているといわれるが、かといって媚びてはいない。底を流れる母性と同時に作品の角を際立たせるのは、同時にきわめて男性的な─それを作家のまなざしと呼んでもいいと思われる─怜悧な視線である。そのふたつがあいまった力が、日常を描きながらも表面的浅薄さに流れないモードの複雑な世界を走らせる両輪となっているのではないだろうか。
それでは、モードの代弁者である女たちは、世界の半分を占めている男たちを、どんな風に表現しているだろうか?真摯な想いを込めた表現もあれば、面白おかしく真実を突いている場面もあって、しばしば、笑いながらも、一生ついて回るような卓見が披露されている。そういうところを拾って歩くのは、白いマシュマロの袋のなかに、二、三のピンクマシュマロが混じっているのを探しだすような楽しさがある。
「男の人に重大なお話があるときは、一番よく見えるかっこうで行きなさいって、オリビアおばさんの言いつけよ」 ストーリー・ガールはそう言って一回りし、スカートを光らせてその効果を楽しんだ。
/「ストーリー・ガール」(上)
似たようなことが、アンなど他の作品でも語られている。たとえば寄付を集めて回るときなど、相手が男性であれば最高の服を身にまとって敬意を表し、女性であれば、警戒させず同情されるよう、みすぼらしい格好をすべきだ、という教訓。そうしなかった場合との比較はなかなかできないのだが、これは私にとっても、日常生活で役に立っている。
「(略)…ばかな女と分別のある女と、どちらを選ぶかってときに、男ってものは一度だって、ためらったことがあったでしょうか。ばかな女がいつでも勝つのだよ、カロライン。あんたが亭主を持てなかったのは、そのためなのだよ。あんたは分別がありすぎる。あたしはばかなようなふりをしたから、亭主を手に入れられたのさ。(略)」
ナンシー叔母/「可愛いエミリー」
エミリー・スターは子どものころ、ナンシー叔母の家に招かれ滞在したのだが、叔母たちは子どもの前であってもついつい大人の話をしてしまうのだった。カロラインは同居している80代のオールドミス。褐色に光る瞳のナンシー叔母は若いころずいぶん美人だったという話だが、美醜とは関係ないのさ、と自説を披露している。
ジョー・ベンソンはわたしに首ったけだったっけ。あんたは素晴らしい人ねってほめてやったからさ。人にもよるが、男は素晴らしいとほめてさえやりゃ自分のものにできるよ──本当にその男を手に入れようと思ったらね。
大きい祖母/「マリゴールドの魔法」
どこか似た魂の持ち主であるナンシー叔母と大きい祖母。主人公が幼いマリゴールドであるにもかかわらず、この物語の過去において、大きい祖母の毒は正しく用いられたのにちがいない。これほど辛らつで女性的なかわいらしさと無縁な彼女にマリゴールドという子孫がいるのがその証拠である。
女たちが男のいない場所で、いかなる会議を催しているか、それは表面の態度からはなかなかわからない。ただし、酷評されないためにすべきことは、簡単なことである。ただ思いやりをもって女性全般に接すればよいのである。そうすればどんな猛女でも、裏でその男性を「かわいらしい人」と認めてくれるのである。「かわいらしい」というのはチャーミングという意味だけでなく、人柄すべてを物語る象徴的な言葉なのだ。
「わたしは悪魔がそんなにひどく醜いはずはないと思いますよ」ジェムシーナ伯母さんは思いにふける様子だった。「もしもそんなに醜いなら、大した害をしないわけですよ。わたしはどちらかといえば悪魔を美しい紳士としていつも考えていますよ」
/「アンの愛情」
思わずうなずくようなジェムシーナ伯母さんの言葉は、『パティの家』に下宿するアン・シャーリーら女学生たちに向っていわれたもの。アンの3倍も生きてきた道の途中で、いったいどんな悪魔がいたのだろうと想像してしまう。雪白の髪にばら色の頬をした小柄なジェムシーナ伯母さんが、美しい悪魔の及ぼした害を思わせぶりに語ったのは、悪魔みたいな外見の猫の話をしていたときだった。後に伯母さんはアンに、何種類の娘になっていたのかとたずねられ、6人くらいと答えるユーモアの持ち主である。
戸口でフランクリンは口からパイプをはずすと、それでアンの肩をたたき、 「いつも忘れなさんな」と真面目くさって言った。 「意地わる猫の皮を剥ぐ方法は一つに限らないということをね。猫奴が自分の皮を失くしてしまうのを分らないようにして出来るんですからね。(略)」
フランクリン・ウェストコット/「アンの幸福」
隣人たちから、娘をいつまでも嫁にやらない暴君と思われていたフランクリン。アンのひと押しと自らの策略によって、面目を保ったまま娘の駆落ち結婚を祝うことができたのだった。フランクリンは娘の結婚相手の性格を知っていて、じらせたのだ。フランクリンのいう意地わる猫は、この場合フランクリン本人でもあり、娘の夫でもあるのだろう(原書ではcatをheと呼んでいる)。アンは意地わる猫の皮を、その後も何度となく上手に剥いだにちがいない。
(ベンジャミン)おじは扉を開けてくれた。ヴァランシーが通りすぎる時、彼はささやいた。 「男の愛を失わないようにする一番の方法は?」 力なくヴァランシーはほほえんだ。だが、もう昔の生活に戻ってきているのだ ──昔のかせに。 「何ですの?」昔のようにおずおずと彼女は問い返す。 「その愛に報いないことさ。」くすりと笑いながら、ベンジャミンおじはそう言った。
/「青い城」
いつも思う。モードはこうしたフレーズを書きあげたとき、どのような美酒を味わったのだろうと。もし彼女がエンドルフィンという言葉を知っていたら、なぜそれほどハイになれるのか、科学的にも納得したことだろう。ヴァランシーは一族のなかで孤立していたし、この場面では自分を縛っていた家庭に逆戻りしているのだが、ベンジャミンおじのように、先に彼女の変化を認めるのは男性の側であった。女性たちは、気づいていても認めるのは最後である。
彼女(注/エミリー)はその男に元気を出させようと思って、ほおえんで見せた。口もとの片すみからはじまって、顔いっぱいにひろがっていく、あのかわいいほおえみ。ディーン・プリーストはけっしてそのほおえみを忘れなかった。崖のま近で、危険にさらされたその小さな顔からこちらを見ている、しっかりしたその眼も、けっして忘れなかった。
/「可愛いエミリー」
魅入られる、とでもいうのだろうか。まさにディーンは、ひと目でこのエミリーという少女につかまえられてしまったのである。自分の愛は報われることはないだろうと知りながら、このときの感動をずっと持ちつづけた。釣り合いの取れないその滑稽さも、モードは行商のケリーじいさんや一族の人々の口を借りて語らせている。やがてディーンは、自分がエミリーの命を文字どおり救ったというようなこととは別の次元で、生涯で最高の贈りものと失意を味わうことになる。しかし、エミリーにとって釣り合う恋人テディ・ケントも、ディーン・プリーストの個性(不完全さ)の前には色あせてしまうのが醍醐味である。エミリーではなく、私たち読者にとって。
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