マンガトモダチ
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2004年05月20日(木) 第30回 凹村戦争

○西島大介『凹村戦争』

 〈半月遅れで届く新聞。となりの村からわざわざケーブルを引いてもNHKしか映さないテレビ。山に阻まれて、携帯電話もラジオの電波も届かない閉ざされ隔離された小さな場所……。〉

 それが、このマンガの舞台となる凹村(おうそん)である。そしてストーリーは、そこに住む凹沢アル、凹伴ハジメ、凹坂カヨの3人の中学3年生が送る、平凡で退屈で凡庸な毎日のなかに、宇宙から奇妙な物体が落っこちてくることによって、進展する。

 本作が初の単行本となる作者の西島大介は、これまでに『スタジオ・ヴォイス』といったサブ・カルチャー誌や『ユリイカ』といった批評誌、そして『ファウスト』や『新現実』などといった文芸誌において、ライター、イラストレーター、マンガ家と役割を変えながら、徐々にその認知度を高めていった人(ちなみに、90年代にスタートを切った日本橋ヨヲコや山崎さやか、竹下堅次郎などといったマンガ家といっしょの世代)で、『凹村戦争』は、現時点における彼の集大成とでもいうべき高密度な内容として仕上がっている。じっさいに、これが発表されてから各種媒体に掲載されたレビューはどれも、ほとんど賛辞のものばかりである。が、しかし、どの意見でも見落とされている、あるいは深く述べられていないのは、『凹村戦争』の本質が、ありふれた青春の内部にしかありえないリアリティを捉え、描いた点にあるということだ。

 たしかに、SF的なガジェットや膨大な引用、スーパー・フラット以降を感じさせるディフォルメされたキャラクター造形と殺伐とした情景の描写は、批評という俎上に載せたときにもっとも目をつけやすい部分ではあるけれども、ちがう、もしも読み手がここにあるいくつかのシーンに感情移入するのであるならば、それは、方法論を越えたところで、または、そのような手法がある種のリアリティを抽出しているからに他ならない。ここでいうリアリティとは何か、といえば、以前(よしもとよしともの項のとき)にも書いたが、時代への共感と違和感である。それら両者がときには仲違いしながらも、『凹村戦争』のなかでは、共存している。どちらか一方に傾くことなく、同時に描き出されている。たとえば、ここではないどこかへの夢想は、今ここにいることの焦燥から生まれる、だが、今ここにいるということの実感は不思議な安堵へと結びつく、そのようなダブルバインド(のようなもの)に決着をつけるのではなくて、ただそれを確認する、そのためのシーソー・ゲームが、凹沢アルと凹伴ハジメ、凹坂カヨという3つの青春の間で繰り返される。そのようにして辿り着くラスト、凹村という、いわば閉じた円環の外に出た凹沢アルが、すべて崩れ去り、頭上には空白が、そして足元には夥しいほどに描き込まれた残骸の広がる空間にひとり佇む、言い換えれば、解放と閉塞が画面いっぱいに同居しているシーンは、非常に象徴的である。その直前に引用されるブラーの歌詞は、本来ならば皮肉を孕んだものであるはずなのに、アイロニーなのかストレートなメッセージなのかもはや判断のつかないものに変質している。その変質は、現状を肯定するのでもなく否定するのでもない、ただ見つめる、視線のたしかさからやってきている。

 あ、そうだ。よしもとの名前を出したから言うわけではないが、僕はさいしょ『凹村戦争』を読んだとき、よしもとの『東京防衛軍』の裏返りではないかという印象を受けた。西島本人はよしもとよりも岡崎京子への思い入れのほうが強いのかもしれないけれども、壊滅する都市へあえて向かう『凹村戦争』は、壊滅する都市にあえて残る『東京防衛軍』のちょうど反対の構図を持っているといえる。もしかしたら、そのことは、80年代の反動としての90年代、90年代の反動としての00年代を微妙に示唆しているのかもしれない。

※作者のホームページ
 西島大介「島島」


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