2003年02月14日(金)
夜の闇の中、音を立てぬようゆっくりと開けた戸の滑る音が、耳鳴りのするような静寂の中に不必要なまでに大きく響いた。視線を走らせた音楽室の中。思うよりも明るいその空間。
窓にはカーテンが掛かっていなかった。
覗く月が煌々と室内を照らし、闇の中に大きな黒々としたピアノの輪郭を僅か浮かび上がらせている。
戸は閉めぬまま、足を踏み入れ、ピアノに歩み寄る。
月の光の落ちた反射する表面に指で触れた。
伝わる冷たさは夜のものだった。夜の冷気がピアノの黒い表面を滑り、触れた指先に染み込む。
このまま触れていれば、いつか体中が夜に包まれてしまうのかもしれないと思った。
夜の落ちてくる時間にこの場所に足を踏み入れるのが好きだった。
誰もいない校内の、誰もいない音楽室。
校内の何処よりも澄んだ空気がして、居心地が良かった。
興味本位で蓋を押し上げてみると、鍵は掛かっていなかった。
鍵盤の白さを見つめても、それには触れることはしない。
この指が何かの音を奏でれば、この静かな世界が崩れてしまう気がした。
蓋を閉じてしまえば、胸に安堵が落ちる。
窓から見上げた空には、月と、星。
硝子の嵌った窓枠に凭れ、胸元から煙草の箱を取り出してみた。
とん、と弾いて取り出した一本を指で弄ぶ。
銜えたその先端に火を点し、深く吸い込んで、それから吐き出した。
乱れる空間。
唇から漏れる息が、清んだ空気を歪めていく。
世界を崩すことを恐れながら、その世界を歪める欲望を抱く。
吐き出した紫煙は、流れ、霧散し、目に見えぬままにこの世界を汚していく。
堪えられず、鍵を外して開け放した窓から夜気が迷い込んだ。
冷気と共に室内へ舞い戻る清んだ空気に、安堵する。
欲望は実現されない。歪めることもまた、恐れる。
穢してしまいたいのに。
「身体に悪いよ」
背後から響いた声にどきりと心臓が跳ねた。
振り返る視線が捕らえたのは、開け放したままの戸口に佇む姿。
見慣れた姿だった。
「何が、」
「煙草、」
「あぁ…」
手元のそれからは紫煙が窓の外へと流れていた。
侵食していく灰の範囲の広さを見遣って、慌ててとんとその灰を落とす。
知らぬ間に傍らまで歩み寄ってきた彼は、落下するその灰と火の消えぬ先端を眺めてから、此方を見た。
見つめてくるその瞳から視線を逸らす。
「身体に悪い。そう何度も云ってるだろう。いつも聞いてないな」
「……聞いてる」
答えると呆れたような吐息が聞こえた。
次いで伸びてきた手が吸いかけの煙草をもぎ取る。
「おい、」
止める間もなかった。彼は、それを、自らの掌の中で潰した。
慌ててその手首を掴んだ。
「何するんだ、火傷するだろう」
強く掴んだ手首が小さく震えて、吸殻がその掌から零れ落ちた。
掴んだ手首を引き寄せて掌を覗くと、灰にまみれた肌が赤くなっていた。
「痛い」
「当たり前だ、だから云ったんだ、火傷するって」
「違うよ。手首」
云われて、ひどく強く掴んでいたことに気づく。
慌てて力を緩めると、するりと手首がすり抜ける。
すり抜ける直前に掴んで引き寄せた。
「待てよ。冷やさないと」
「いい」
「よくない」
「いいんだ」
「いいわけないだろう、」
「いいんだよ」
どうして、と問うた。彼は、此方をまっすぐ、そう、本当にまっすぐに見つめて、言葉を継いだ。
「僕は何度でも同じようにするよ。これで、もう吸う気も起きなくなったろう?」
笑んだ。ね?と首を傾けて顔を見つめてくるその微笑を、眉を寄せて見返した。
答えないのをみると、彼はすうと目を細めた。
掴んだままの手から己が手首を離れさせて、赤く痕のついた掌を此方に伸ばした。
頬に、冷たい指が触れた。
「穢したいなら、こうやって僕を穢せばいいだろう」
目を見張る。
「いくらでも、穢してかまわないよ」
無意識に緩く首を横に振る。否定の。
壊れる。穢して、歪めてしまえば、壊れる。
「大丈夫」
彼の、顔が近づいた。
唇に。その唇が触れるほどの距離で、囁く。
「僕は壊れない」
この指は、音を奏でるものじゃない。
弾き出した音をかき乱すもの。
壊して。
壊して。
それでも、破壊できぬ世界。
それが彼だったのだと。
ずいぶん後になって、僕は気づいたのだった。
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寒いので、なんとなく即興で書いてみました。
こういう全然考えてないでつらつら適当に書き進めるのは得意なのになぁ(笑)
たまにこういうのやって、執筆欲を解消しようっと。
それにしたってこう…結部分が甘いな、いつも(苦笑)
終わりに近づくと面倒くさくなるのがいけないのかしら(笑)