ケイケイの映画日記
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2025年03月26日(水) 「教皇選挙」




わー、凄い。素晴らしい!まだ三月だけど、ぶっちぎりで今年一番です。キリスト教信者ではない私にも、自由に解釈出来たのは、作品の懐が深い証しです。宗教とは哲学であるべきだと痛感する作品。監督はエドワード・ベルガー。本年度アカデミー賞脚本賞受賞作(ピーター・ストローハン)。

キリスト教最大の教派である、カトリック教会の総本山・バチカンの教皇が亡くなります。主席枢機卿であるローレンス(レイフ・ファインズ)は、管理者として、次期教皇を決める選挙(コンクラーベ)を執り行います。

次期教皇の有力候補は、イタリア・ベネチア教区の保守系・伝統主義者のテデスコ(セルジオ・カステリット)、初の黒人教皇を狙うナイジェリアのアデイエミ(ルシアン・ムサマティ)、カナダ・モントリオール教区の穏健保守のトランブレ(ジョン・リスゴー)、アメリカ出身でリベラル派最先鋒のバチカン教区のベリーニ(スタンリー・トゥッチ)の四人。こう書くと、ほぼ政治と同じです。

鑑賞前は、この手の傾向もあるだろうとは予想していましたが、まさかここまでとは、と感じる生臭さ。ライバルのかつてのスキャンダルの暴露、賄賂、その他、足の引っ張り合いの数々。あちこちで煙草を吸い、吸殻は路上にポイ捨て。美食とワインの日々を整えるのは、シスターアグネス(イザベラ・ロッセリーニ)始め、数多くのシスターたちなのに、感謝の言葉も無し。彼らが聖職者であるというフィルターが、全ての裏をねじ伏せている。

教皇が亡くなる前、主席枢機卿の退任を申し出ていたローレンス。教皇が退任を認めなかったのは、死期を悟り、自分にコンクラーベの管理をして欲しかったのだと、その意を汲み、マネージメントに心血を注ぎます。

私がとても感服したのは、遺体でしか出てこない教皇の偉大さが、コンクラーベの中で浮き上がる事です。ローレンスを指名した事しかり、様々な戦火の中で、布教に邁進していたベニテス(カルロス・ディエス)を守るため、秘密裏に枢機卿に任命していた事。ある枢機卿の悪事を見逃さなかった事。ローレンスは「私は教皇の器にない」と、再三語りますが、その器とは何なのか、亡くなった教皇の足跡を辿れば、解かる気がします。それは決断力なのでは、ないかしら?

始めは乗り気でない風だったベリーニの本音は、「枢機卿になったなら、教皇になりたくない者などいない」でした。そして、ローレンスに「自分に向かい合え」と言います。ローレンスが自分に向かい合い、何度目かの投票用紙に、初めて別の名前を書いた時、何が起こったのか?私はその時、これは神の啓示ではないかと思いました。一番にそう感じたのは、誰あろうローレンスだったと思います。彼が足るを知った瞬間です。管理者として規律を守るためには、規律を犯さねばならず、そのやるせなさに涙するローレンス。しかし、ここでも亡き教皇が、彼に味方するのです。

私が心を打たれたのは、そこかしこに、亡き教皇や神の息吹、導きがあった事です。それは厳かで暖かい。見守るという言葉の意味は、この事なのかと思いました。自分で頑張って答えをチョイスさせ、煮詰まり手詰まりになり、くじけそうになって、初めて手を貸すのです。答えは、自分で選ばせる。

昔のスキャンダルに追いやられた枢機卿は、「大昔の事が、未だ許されないのか?」と涙します。ローレンスは「あなたは既に許されている。祝福されている。だから辞退するのです」と言う。私は「悔い改める」という言葉が浮かびました。悔いた事を改めるのであって、改めたら悔いた事は無くなるのか?そうではないのだ。生涯忘れず悔いていくから、心が改まるのじゃないかしら?その真摯な決意に、神は祝福してくれるんじゃないかな。このシーンが、とても心に残りました。

ベリーニたちリベラル派は、時代と共にアップデートしてきた教会を、後退させてはいけない。今まで共産党員であったり、小児愛の問題を無視してきた教皇もいた、傷のない人間はいない、だから自分たちは問題ありの人でも推すと言います。ローレンスもリベラル派。このシーンの清濁併せ呑む思考に、少々感銘を受けた私ですが、後々の伏線も担っていたのだと、今思います。

そう、人間や社会だけではなく、宗教だって進歩や成長していかねばならない。テデスコが過去の超保守的な協議に拘るのは、それは教皇という権力を手にしたいためではないかと、感じます。「宗教戦争だ!」と、声高に煽る彼に、戦火を潜り抜けてきたベニテスは、「あなたは戦争の何を知っているのか?」と一喝します。そして、コンクラーベを、つまらぬ人間の集まりだと吐き捨てる。

聖職者らしからぬ枢機卿たちの狼藉の数々を見せられた後、誰が枢機卿に選ばれたのか?初めて聖職者の良心を観た想いでした。しかし、ここにも問題が立ちはだかる。新教皇は、「神が私を作ったのだから、神の御心のままに生きる」と言い切ります。何と言う清々しさ。前教皇からの、更なる進歩だと感じました。

亀を抱きながら、微笑むラストのローレンスは、新教皇の難問を受け入れたのでしょう。思えば亀も伏線だったのかも。見事な管理者ぶりだったローレンス。例えば新教皇や他の枢機卿が管理者となったとして、これほど見事な仕切りが出来たかと言えば、絶対にNOです。亡き教皇の目に狂いはなかったのですね。人には適材適所、自分の器に会った場所でこそ、真価を発揮出来るのでしょう。

華やかな聖衣の見事さ、重厚かつ麗しい絵画、厳かな教会内の様子など、美術面も大いに見どころがありました。そう言えば、シスターたちはずっと質素な服装ばかりで、ここもキリスト教の悪しき教義である男尊女卑が表されているのでしょう。

宗教は、今を生きるものでなければならない。ベニテスの言葉だったでしょうか?私もそう思う。来世の幸せではなく、今生で幸せを感じなければ、意味がないと思います。ミステリーとしての面白さと、重厚な人間ドラマが共存し、生々しい人間臭さを放つ枢機卿たちから、神の存在を身近に感じた奇跡のような作品です。私の生涯の一本になりそうな予感がします。



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