ケイケイの映画日記
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2021年06月13日(日) 「トゥルーノース」




お話しが始まってすぐから、北朝鮮収容所が舞台の内容なのに、私が想起したのは、ピーター・フランクルの著書「夜と霧」でした。冒頭、語り部の青年が「これは政治的なお話ではありません。僕の物語をお話しします」と語った意味は何だったのか、それを受け取った時、大きな勇気が湧いてくる作品。監督は清水ハン栄治。3Dアニメです。

幼い兄と妹のヨハンとミヒ。彼らの両親は日本からの帰還事業で、北朝鮮に帰ってきた在日朝鮮人です。ピョンヤン生まれのヨハンとミヒは、毎日を楽しく過ごしていましたが、ある日父が政治犯として政府の取締りにあい、母と兄妹は収容所に連行されます。

監督は10年かけてこの作品を制作。脱北者の証言を基に脚本を書いています。凄惨、過酷、非人道的と言う言葉を100並べても、足りないくらいの日々。支配される者に対する、あらゆる拷問や蹂躙が、支配者階級には娯楽となる日常。観ていて目を背けたくなるシーンの連続ですが、きちんと観られたのは、リアリティの薄いアニメだったから。作り手はそこを狙ってアニメにしたのでしょう。

これ、ナチスじゃないの?いいえ、ウイグルだってボスニアの内戦だって。観ているうちに、監督が言いたいのは、北朝鮮を糾弾することではなく、政治の独裁や混乱により、罪もない人々が絶望の日々を送らなければならない、その理不尽さを糾弾しているのだと、理解しました。

それと同時に、過酷な支配と飢えと憎悪の渦に飲み込まれながら、どうして希望を捨てずに生きていくか、それが描かれていました。過酷な毎日でも、隣人を気遣い、母を亡くした子供を我が子のように慈しむヨハンの母。ヨハンは一度は失った人間性を、この母の身の上に起こった事により蘇らせます。母と生き写しの心映えを持つミヒに導かれ、人としての心を取り戻すヨハン。二人を中心とした、収容された人々の密かで強い連帯。私は絶望から人を救うのは、良心だと感じました。良心こそが強靭な、明日を信じる自分を作るのでしょう。

私が一番辛かったのは、兵士におもちゃにされ、妊娠した女性たちが、快楽に耽ったと銃殺されるシーンです。戦争でも収容所でも性的に搾取され命まで奪われ、犠牲となる女性たち。なのに戦争に加担する女性の政治家がいるのは、本当に何故なんだろう?

私がもう一つ謎なのは、北朝鮮を描く作品が日本で公開され、それを目にするはずの北朝鮮系の在日の存在です。何故どこからも声が出ないのか?昔なら祖国たる北朝鮮に親兄弟、親戚がいるから、本音は出せないのは理解出来ます。しかし今はもう、祖国の人の大半が亡くなっているはず。

監督は在日四世だとか。日本名に「ハン」と付けたのは、多分本名をミドルネーム的に監督名義に入れたかと想像しています。在日の出自を明らかにしているのに、清水と日本名を名乗っているのは、帰化していると思われます。インタビューで、幼い頃祖母から外で遅くまで遊んでいると、収容所に入れられるよと言われたと書いてあるのを読み、北朝鮮系(だった)ではないかと感じました。私は帰化して今は日本人ですが、元は韓国系在日。監督より年長ですが、そんな事は言われた事がない。祖母から言われたのは、日本の同年代の人と同じく、「遅くまで遊んでいたら、子取りに攫われて、サーカスに売られる」でした。

監督は自分のアイデンティティを見つめ、映像作家として何が出来るのかと、問うたのでしょう。そしてその思いを、全世界に向けて解き放った作品が、「トゥルーノース」。私の推測が当たっていれば、長年の疑問に、一つ答えを貰ったような気がします。


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