ケイケイの映画日記
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2019年06月04日(火) |
「僕たちは希望という名の列車に乗った」 |
ドイツが東西に分かれていた時代を描いたお話は、秀作が数々あり、私が最も愛しているのが「善き人のためのソナタ」。大人世代が描かれている作品が多いですが、今作は東独ではエリートであるはずの、前途悠々の高校生たち。窺い知れない当時の東ドイツの状況も垣間見られ、純粋な高校生たちの行動に、教えられる事の多い作品でした。監督はラース・クラウメ。
ベルリンの壁がまだ無かった時代の1956年。エリートが通う高校に通学していたテオとクルト。時々西ドイツに渡っては、向こうの文化やニュースを享受していました。ハンガリーで、ソ連の影響下の強さに堪えかねた民衆が蜂起し、多くの市民の犠牲が出た事を知ります。同じような立場の自分たちを重ね、クルトの提案で、クラスメートたちはハンガリーの犠牲者への黙祷を捧げます。これが東ドイツ当局の耳に入り、彼らは異分子として、処罰の対象となると言われます。
まずびっくりしたのは、当時はまだベルリンの壁がなかったこと。そして、身分証こそ必要ですが、割とたやすく東西ドイツを往来出来た事もびっくり。そりゃ西側の情報もすぐ入ってくると言うものです。
エリートであるはずの彼らの教室ですが、クラス25人くらいですが、ロッカーも無く、小学校のような狭さ。私はこの辺に経済状態の悪さを感じたのですが、どうなんでしょう。
幾度も卒業試験を西ドイツで受けると出てきます。私は別の国だと認識していたので、これもびっくり。もちろん理由は必要でしょうが、試験は東西統一だったのでしょうか?
命を落とす痛ましさに黙祷しただけなのに、この展開。犯人捜しにやっきになる当局は、生徒たちに誰々が口を割ったと噓と付き、生徒ではなく、子供たちが知らなかった父親の背景を暴き、あろう事か、自分たちに都合良い犯人をでっち上げようとする。もう何をか言わんや。正義はどこへ?
当初は生徒たちが正義感を貫いたのだと感じていましたが、大臣登場でそうではないなと。彼の首には、敵方同胞から拷問を受けた生々しい傷跡が。正義と言うのは、その場所、時代背景で、変遷するものじゃないかしら?信じていた正義は、時代と共に正義ではなくなって行く例は、たくさんあります。
では子供たちが貫いたものは?私は良心ではないかと思いました。友人を売って今の地位を築いた者、家族のため、已む無く思想を変えた者、拷問に耐え切れず、寝返った者。親たちが最後には我が子を見守る道を選んだのは、良心に背いた自分の心の傷が、癒える事がなかったからだと思います。これも戦争の傷跡でしょう。時代は変わっても、国が違っても、良心は変わらない。
当時の東独の若者たちの、西側諸国と同じ、青春の日々を描く導入から、次第に闇や厳しさを表現。ラストはタイトルそのまま、希望を抱かせる締めくくりでした。実話が元ですが、その後の彼らが、どんな人生を送ったか、知りたくなりました。
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