ケイケイの映画日記
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2018年04月15日(日) 「ラブレス」




観たいと思いつつ、時間が合わず観られずじまいだった監督、アンドレイ・ズビャギンツェフ。まぁほんと、胸くそ悪い夫婦と言うか、出来の悪い両親を、これでもかと描くお話なのですが、ラスト、母親の着るパーカーに浮かぶ「RUSSIA」の文字に、あー、そうだったのかと、合点が行きました。厳しさの中に、監督が自分の国への憂いを、いっぱい込めた作品です。今回ネタバレです。

ロシアの一流企業に勤めるボリス(アレクセイ・ロズィン)と美容院を経営するジェーニャ(マリヤーナ・スビヴァク)は、離婚が決定している夫婦です。目下の問題は、離婚後一人息子のアレクセイを、どちらが引き取るかです。二人とも既に新しいパートナーがいて、アレクセイが邪魔なのです。そんな折、アレクセイが下校途中で、突然失跡してしまいます。

冒頭、凍てつくロシアの風景が映されますが、この家庭はその風景も生易しく感じられる程、冷え冷えしている。凍えるような家庭に投下されるのは、暖かい暖炉の火ではなく、夫婦の壮絶な喧嘩の果ての、怒りの炎だけ。私にはこの光景は見覚えがある。私の育った家庭です。

違うのは、母は私と妹の手を絶対離さなかった事です。アレクセイが、自分を押し付け合う両親を陰で見ながら、一人咽び泣く姿に、泣かない人はいないでしょう。あの時幼かった私は、妹ときつく手を握り合い、やはり声を殺して二人で泣いていました。たった一人、兄弟のいないアレクセイが、どれ程心細く辛いか、私には痛いほどわかり、しばらく涙が止まりませんでした。

アレクセイが失踪した時も、両親とも不倫相手と堂々と(そう!堂々と!)外泊しており、いつ居なくなったのかも、確かにはわからないと言う有様。親として、お粗末過ぎです。

夫は妻に、子供がいらないと言うと、母親の方が家裁に悪く思われるぞと脅かします。今の日本の風潮じゃ、けしからん父親だと言われそうですが、私も夫の意見に同意する。理屈や御託じゃなく、母親は何より子供が大事じゃないのか?私は親とも離れたかったし、夫と離婚を考えた事もあります。「愛する」人と別れたいと思ったのです。

でも子供と別れたいだけは、一度もなかった。何故なら子供が子供である時は、母親が世界で一番好きなのです。例え思春期の入り口の12歳であっても。この母と子の濃密な至福の時は、一心不乱に子育てする母親への、褒美なのです。私が戻りたいとすれば、あの時です。今ならもっと良い母親になれるのに。それなのに、どうして?

従業員に、如何に難産だったかと、まるで自分が被害者のように語るジェーニャ。年かさの従業員に、「みんなそうよ」と、軽くいなされる。愛人と居る時は、まるで童女のように、愛したのはあなただけ、子供も夫も愛した事はないと、むしゃぶりつきます。対する夫には、子供なんか産まなければ良かった、中絶すれば良かった、あなたに利用された、全部あなたのせいよと、食ってかかる。まぁ本当に呆れ果てました。全く持って、ジェーニャが子供なのです。愛人に寝物語に語るふわふわした戯言は、この不倫に酔っているだけで、きっと夫とも同じだったのだろうと思います。

ジェーニャは実母とも折り合いが悪く、常に「愛される事」に飢餓感があるのでしょう。でも私は、愛されるためには、愛する事が先だと思う。

ボリスにしても、まだ妻と離婚もしておらず、問題山積みなのに、愛人は臨月。世間体ばかりを気にし、妻にも愛人にも真剣に向き合っているとは思えない。もちろん、子供にも。この先の不安に涙する、年若いボリスの愛人が哀れです。しかしこの期に及んでも、ボリスとジェーニャは反省もせず、罵り合うだけ。この夫婦は富裕層に当たり、二人とも社会的には成功しているはずなのに、親としてのあまりの幼稚さに、怒りすら沸かず、ただただ情けない。同時に、これは日本でもある風景なのだろうか?と、暗澹たる気持ちになります。

警察に届けるも、他にもっとやる事があるのさと、おざなりの対応で、何とボランティア組織を紹介するには、また唖然。しかし、このボランティアたちの頑張りが、情けなさと絶望する私の感情を救ってくれました。

組織化され、系統立てて指令が下され、老若の市井の人々が、凍える寒さも厭わず、アレクセイを懸命に探します。この作品で始めて観た「愛」でした。しかし肝心のボリスとジェーニャは、いつ息子が帰って来るかもしれないのに、お互い愛人宅に入り浸る。本当にどうしようもない親です。

しかし、国家が個人の善意に頼って、危険を省みず、何の権限も持たせず、事件に近い事柄に踏み込ませて良いのだろうか?それはこの夫婦と同じくらい、情けない事ではないのかしら?ボランティアの頑張りを観るほど、私の疑念は広がります。

そして数日経ち、少年の遺体を確認するボリスとジェーニャ。二人とも否定するも、激しく慟哭する姿は、きっとアレクセイなのでしょう。そしてまた夫を罵る妻。どこまで行っても、変わらない夫婦。微かな救いは、二人からアレクセイへの愛が見えた事です。

それから数年後、不倫相手と結婚している二人。しかしそこに幸福感はなく、ボリスの家庭は、妻の母が入り浸り、可愛い盛りの息子を相手するでもなく、ぞんざいに扱うボリス。ジェーナは夫と二人並んでテレビを見ているのに、会話するでもなく、相変わらずスマホを弄っています。そしてテレビから流れる、ウクライナの内戦の様子。家族を思い、現状の悲惨さを必死で訴えるウクライナの女性と、溢れかえる豊かさの中、退廃的なジェーニャとは対照的です。そして、唐突に屋外のルームランナーを使用するジェーニャの羽織ったパーカの胸には、「RUSSIA」の文字がくっきり。

あー、そうなのか。ボリスとジェーニャに、今のロシアと言う国を投影していたのですね。急激に経済的には好転するも、家庭(国家)の中身はスカスカで、成熟には程遠い。身近な家族や隣人(ウクライナ)への愛は見出せず、愛はあっても自己愛だけ。ボランティアをクローズアップさせたのは、やはり社会の成り立ちの歪さを、映していたのだと思います。

しかしこのお話、ロシアだけなのでしょうか?日本でも、終末期の高齢者は、お金のかかる医療や福祉ではなく、隣近所のボランティアで面倒をみようとする案が、実際出ているのです。富める者は自己愛に走り、市井の人は善意のボランティアへと、政治が案内する。これでは国家崩壊へ、舵を切っているようなもんです。

一番肯定されやすい、子供への愛情すら示さない夫婦を通して、国の在り方を問うた作品ではないかと、感じました。ロシアのお話が、遠くの日本でも地続きで繋がっているかのようでした。


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