ケイケイの映画日記
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2014年08月23日(土) |
「めぐり逢わせのお弁当」 |
現代のインドの大都市ムンバイを舞台に、心満たされぬ若妻と初老男性の往復書簡を、しっとりと描く秀作。個人的には若妻よりも、初老男性の気持ちが手に取るようにわかり、自分でも少々びっくり。インド映画ですが、歌も踊りもなく、静かな作品です。監督はリテーシュ・バトラー。
幼い女子のいる主婦イラ(ニムラト・カウル)。夫とは隙間風が吹き始め、何とか修復したいと願っています。手始めにお弁当に手紙を添えて、心を込めて作ろうと決心するイラ。しかしそのお弁当が、宅配の手違いで、妻を亡くし役所を早期退職する初老男性サージャン(イルファン・カーン)の元に届きます。戸惑うサージャンですが、やがてそれは間違って届けられたと知ります。そこから二人の手紙の交換が始まります。
インドは自家製のお弁当を配達するシステムが発達していて、ハーバードも研究に来て・・・と、宅配人が「ご配達なんぞ、ない!」と断言しますが、見ていてどーも、かなり怪しい気が(笑)。しかし600万個に一個しかないご配達が縁で、二人の交換が始まったのですから、人生とは乙なものです。
イラ、サージャン二方の心の寂寥感の描写が秀逸。イラが夫の浮気に気付く場面など、主婦ならではで、「夢売るふたり」の松たか子を彷彿させます。エラの夫は仕事はきちんとする人で、生活の面は心配なさそう。妻の手料理の味もわからず、愛されている実感もないのに、じっと我慢している彼女は、昔の日本女性のようです。妻を愛しながらも小バカにした態度を取る「マダム・イン・ニューヨーク」の夫、そして生活の安定は保障しながら、妻を無視した生活を送るエラの夫など、インドの主婦は尊重されない自分の立場に苛まれているのがわかります。
洗濯物の匂いを嗅いで、洗濯するもの、干せばまだせずに済むものなど仕訳するエラは、丁寧に家事をこなす立派な主婦です。何故だかわかる?水道代や洗剤の節約になるし、洗濯機の摩擦から服の生地の痛みを防ぐため(私はまるでやっちゃいない。とにかく洗濯機に放り込む)。丁寧なお弁当作りしかり。見ているだけで、香辛料の芳しい香りがしてきそうでした。しかしその主婦としての誠実さは、誰も褒めてくれない。
サージャンは、元から偏屈な人だったのでしょうか?私は妻を亡くした後の無聊な生活が、彼をそうさせたと思います。店の宅配のお弁当やレトルト食品を独りで食べる日々。眺めるともなく、家族団欒の隣家の楽しい食事風景を見るサージャンの姿に、孤独がくっきり浮かびます。対するエラの夫は、妻の手料理をスマホ片手に食べるだけ。当たり前のように享受する日常に、感謝はありません。人生はままなりませんね。
孤独を託つ二人には、それぞれ「応援団」がいます。エラには上の階の夫を介護するおばさんで、そのけたたましくも温かい言葉の数々が、エラにはオアシスになっているのがわかります。対するサージャンにも、人懐こいのを越して、お節介気味の彼の後任者がいます。子供のいないサージャン、孤児だった後任者。段々と慕い慕われる様子は微笑ましいです。サージャンは彼を通じて、自分にない、未知なるものを受け入れる準備が出来たのかも?
私が感銘を受けたのは、美しく若いエラには、自分は年を取り過ぎていると卑下し、彼女に別れを告げようとしたサージャンが、自分よりもっと年長の老人の手を見て下した決断です。初老は老人じゃない。中年も老人じゃないのだと、目から鱗でした。老いがひたひたと忍び寄っても、まだ老いるのには早いのだと、自分自身を顧みて目が覚める思いがしました。
岸恵子が70代の女性の性愛を描く「わりなき恋」を書いた動機が、「70代と言えば、黄昏て達観した人ばっかりが出てくる。でも長寿の時代#間違って”100歳まで生きたら、私には”まだ70の若い頃”があったのに、と悔やむより、その年代を謳歌する小説を書きたかった」と書いてあるのを読んだ時と、同じ気分になりました(今読んでいるけど、小説自体はそんなに面白くない)。
エラの出した決断は、父親が亡くなった事が踏ん切りだと思いました。夫に経済的に頼らなければ生きていけない、そんな女性を取り巻くインドの事情も垣間見られます。観る者に委ねるラストですが、私はハッピーエンドだと思いたい。だって1/600万でしょ?絶対深い縁があるはずだから。世の中から尊重されない、定年間近の初老男性と専業主婦の淡い恋心は、瑞々しく心打たれるものでした。決して人生の落伍者が、傷を舐め合う恋ではないと思います。
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